素描_10結

 はらだ「わたしたちはバイプレーヤー」を読んだ。BLというジャンルがどのような結構をもったものなのか、自己言及的に描くすぐれた作品と思った。話題作となっていた売野機子『インターネット・ラヴ!』もまた、BLというジャンル、ひいては男性同性愛がどのような位置づけをとるべきであるかを間接的に描いていたように読んだ。彼らは悲劇──それこそはらだの『にいちゃん』のような陰惨な物語と対照的だ──とは無縁の、身に余るような幸運な恋愛を享受する。それは、半ばにはそうであってほしいという願いであるとともに、そうであるべきだという主張でもあったと思う。そんな都合のいい話は確かにないのだが、都合のよさ、または有り得なさは、その質をおそらくかつてとは違えている。男性同性愛という困難は、恋愛の困難それ自体に傾きつつある。恋愛は思うようには叶わない、だが、それは、恋愛だからにすぎない。区別はなくなっていくだろう。インターネットは、そうした境界のなさを描く場となっているだろう。性も言語も世代も国境も、彼らの恋の障壁には不十分であるように見える。他方、(もちろん作品発表の時期の違いは何よりも大きいだろう)「わたしたちはバイプレーヤー」は、恋愛の不可能性を、性差を、乗り越えがたいものとして引き受けることになる。ただし、同性愛当事者ではなく、異性愛当事者として。そしてそれは、読者が引き受ける、ということでもある。
 BLはフィクションだが、フィクションは現実を巻き込み、現実に位置する読者も巻き込み得る。これを啓蒙だとか教育だとか名指すには不適当だろうが、きっと消費物以上の意味/意義を持ち出すだろう。少なくとも私にとってはそうである。

 今週はほんとうに晴々とした天気が続いていた。久々にぽっかりと空いた時間に身を任せて、何をするでもない毎日が過ぎていく。母が『きのう何食べた?』のドラマを配信で見ている。ケンジとシロさんは、今ではありえないような食費で日々をやりくりしている。SEIYUでたまごが390円もしてびっくりしてしまった。390円もするたまごをどうして買わないといけないのか?だからといって、たまごのない毎日は想像しがたい。いや、それを想像し、現実に落とし込み、何かべつの仕方でタンパク質を補い、または味覚の慣れを再構成していく作業にリソースは割きたくない。たまごさえあれば、副菜はどうにかなる。野菜室に残っている適当な野菜とそれを炒める。ただし、野菜も高いのだ。50円、100円、落としてしまえばそれまでに過ぎない硬貨1、2枚ぶんの価格差に、現実という重みが伴っている。私は、硬貨をかつてより多く支払うことで、どう甘く見積もってもろくでもないというしかない現実にコミットする。保つべき日常を保つために、たまごとありあわせの野菜を炒め合わせるどうでもいい日常を維持するために、それを支払っている。
 晴天である。私はいつになく暇である。夜は久しぶりに母を伴って、近所のうどん屋でうどんを食べた。はじめて入ったうどん屋だった。この二階の窓からは参道をあるく人だかりが夕闇のなかにもはっきりと認められる。もぞもぞと、切れ目なく人は流れていく。
 雨が降ってきたらしい。
 資さんうどんとはだいぶ違うねと隣席の客が言った。九州から来たのだろう。うどんを食べ終わって外に出ると雨は止んでいたし、入店待ちの列ができていた。ちょっとの差だったねと母に言う。

 知らない町で知らない人たちの話をずいぶん聞いた。それぞれの時間が重なって交わる。手土産にと買ったマフィンは、思いがけず地元の店の支店であった。私のなかにまとまっていたそれの意味が上書きされていく。ランボーが言った、私とは一人の他者であるというあまりにも有名な言葉を、思えばずいぶん意識してきたし、それはいずれラカンなどの精神分析に親しむ素地を作ったはずだ。La Bonitaと名づけられた、ずいぶん甘い香りの香水をここ数日は気に入ってつけている。パッションフルーツのような香りを、ヴァニラがもったりと支えている。こんな香りを纏うイメージは、かつては全然なかった。甘い香りが私の輪郭を滲ませて、異なる私を作っていくかのようだ。知らない町で聞いた知らない人たちの話も、私に滲んでいく。滲みは私を構成する文字をいくらかぼかして、読み取れなくする。甘い香り、知らない世界、晴れた空に長過ぎる時間がゆるやかに私を変えていって、また私が、それをきわめて歓迎している。