素描_11頭

 そこまで周到な方ではないにせよ、ひとつのミスもしくは勘違いが、いくらなんでも無残すぎるほどに1日の足場をことごとく崩すことがある。思えばそれは確かにスプレッドシートに書かれており、まさしく勘違いあるいは思い込みによって見落としており、それで、ああ、今日の帰宅はさらに2時間遅れるのかと気づき、また、その遅れた2時間のなかで物理的・心理的圧迫があり、なんとか乗り越えたその時間のあとも早速アイスコーヒーを忘れてきたなと気づいたのに、そして最寄りに帰れば開いてる店などごくわずかだということを知ってもいたのに帰り、案の定ろくでもない食事しかできずに、それでもコンビニで甘いものを買ってただちに口に入れて溜飲を下したというのに、その電話がかかってきて、もっと気づくべき忘れ物に気づかされ、さらには気づかなくていいのに終電に間に合うことに気づき、走り、かなりの勢いで走り、その忘れ物の件を解決して1日が終わった。こういう日は呪うべきなのに、もっぱら自分の迂闊さに起因したすべてであり、心理的圧迫もまた自分の来し方に要因があり、物理的圧迫もおそらくはそうであろうと一切を自らに帰責した末、逆にものすごく面白くなってきて、あらゆるところが通行止めまたは閉店した街を歩く。いっそ家に向かって3時間歩こうかとも思うが、その道はつまらないのを知っている。今年何度この街で夜を明かすのか。きっと皆寝ている、あるいは起きている。平和に、もしくは不穏に。TLですらそれは伺える。何度か、すでにもう忘れてしまった誰かの平和乃至不穏なつぶやきを指で引き下げる。更新はされない。

 

 思うように行かない。些細なことだとしても、尾を引いて調子を崩す。だが待てよ、その崩れに絡まって、寝乱れたベッドで1日の始まりをなるべく遅らせようとするようにだらだらとしていると、あれ案外楽しいなと思ったこともあった。もちろんこれはもののたとえで、実際は働いているのだが、そんなふうにダラついた結果、思うようにいかなさに委ねればいいんだなと身が軽くなることもある。諦めというほどでもなく、でもこれは構えの解除なのだと気づく。まったくしょうがないね、というのは東京の古い人たちの言い回しだろうか、たしなめるような、それでいて甘やかでもある口ぶり。顔もゆるんでいく。ままならなさを撫で、愛で、まあこんなもんだと受け入れる余裕は、しかし余裕のなさの底に手をついてようやく見つけられる。ただやっぱり余裕はないのだろう、そこで何がどうなってこの快さを感じているのか、後から追うことはできない。なんだかわからないが楽しかったと、その手触りだけ残っている。

 日も落ちて、もうこんなに遅い時間かと勘違いしたがまだ17時。片付けながら身振り手振りを交えて、最近の面白かったことを話す。笑いのなかに一抹のさみしさがある話。でもまあ、笑ったからいいのだ。

 

 鰻を食べた。関西風、というと蒸さずに焼いたものらしいが、それを食べた。炭火で焼かれた鰻は、それこそ香ばしいというくらいしか形容の言葉を持たないが、まさしく香ばしかった。うまい、のだろう。ところで、つきだしで「うざく」が出た。さる人がこれをむずかしい食べものだと言っていたが、たしかにむずかしい。鰻、きゅうり、それを酢で和える。いったい何を狙っているのだろう。まずいということは絶対にないのだが、どうしてこうなのだろうというのがわからない。酢の速さ、きゅうりの軽さ、そうした軽快さと鰻の何が調和しているのだろう。調和を探すべきではないのかもしれない。だとしたら、何を探すべきなのか。中国語と韓国語と英語が店内に行き交う。彼ら彼女らはうざくをどう食べたのか。そもそも鰻は彼ら彼女らにどれくらい親しいのだろう。私にしたって、鰻の味がわかるとは言えない。香ばしい、程度なのだ。その感覚を頼りに箸を動かす。脂質の味わいもある、タレの味わいもある、でも、何か像を結ばない。よくわからない。

 

 猫、老いたふうな猫が歩いている。目がよく見えてないのか、近づいても逃げる様子はなくて、触っても意に介さずそのまま歩き続ける。野良猫なので、毛が絡まっているから硬い手触りがある。猫は歩いている。付き添うように自分も歩く。触られても触られなくても何も変わらない猫。超然としていて、老いの無感覚というにはあまりに私と隔たっていて、畏れを感じる。それはそれでひとつの確かな生で、猫の生涯の厚みを感じる。15の犬みたいに、もうすぐいなくなる。七尾旅人がそう歌っている。15なのかどうなのかしらないが、もうすぐいなくなるだろう猫と、手と歩調において交わった。