素描_11中

 寒さに耐えかねて現場を抜け出して、最寄りのコンビニに行く。送られる車の窓から姿を認めていたファミマ。入店するなり、やきいもをすすめる、ボーカロイドのような声が延々とリピートしているのに気づく。焼きそばパンにファミチキとカロリーを摂って身体を温めにかかるが、ボーカロイドの声が気になる。やきいも〜ほかほか〜みたいな単純な売り文句を疲れ知らずに繰り返す。すごく短い間隔でリピートしている。店員は気にならないのだろうか。田舎というのに溢れかえりそうになっているゴミ箱にゴミを突っ込んで現場に戻る。真っ直ぐな道の向こうに山が見える。暮れかかって稜線は定かでない。小学校のとなりの建物ではなにかを練習しているような声が聞こえる。と、おもったらそれは現場から聞こえるマイクの声が建物の壁から跳ね返ってくるのだった。いや、そう思ったがやはり建物の中から聞こえるのだったか。現場に戻るとほどなく白い龍を引き連れた学生たちが現れ、そのあとすぐにキム・ウイシンさんの踊りが始まった。チマふうの長く赤いスカートを脱ぐとスパンコールのついたベリーダンスの衣装になる。髪を解くこと、衣装を変えることでおどろくほど違った人物になる。肌こそ露わにしないが、ストリップでずいぶん見慣れた現象だ。表層の変化が、本質的な変化に届くかのように見える。すべては表層に過ぎないと断じたところで、ことの新鮮さには、やはり届かない。それはひとつの純粋な驚きなのである。

 大和ミュージックでも、緑アキさんの『デビュー作』で驚きがあった。スパンコールの付いたビキニ姿のM1-2でチェアーと戯れるようにアクロバティックなポーズを決めるシークエンスがあったかと思えば、衣装替えでは真っ赤なドレスへと一気に変化する。色彩的にも衣服のスタイルとしても、衣装替えの前後でこのような大きいコントラストをもった演目をあまり知らない。ストリップには脱ぐことの驚きもあれば、纏うことの驚きもある。人は着替えることができる唯一の生き物だとエリック・ギルは言ったが、かように人が服を纏うことの豊かさをここまで見せてくれるジャンルも、やはりストリップだけのような気がする。

 靴が2足続けて壊れてしまった。すぐに買ったはいいが、壊れた靴を履いているとどうにもみじめな気分になる。あまり人目にはつかないのだからもっぱらみじめさは自分だけのものにとどまる。足元を見る、という慣用表現の由来を知らないが、人がふだん眼にしないところをつついてくることだということはきっと間違いないだろう。他方、海外の人にしばしば靴を褒められた記憶がある。本当に好ましい靴かどうかというより、やはりここにも目が届きづらい場所をあえて褒めるという機微が感じられた。着ているニットの首元の意匠に好ましいものを感じて褒めても、そっけない口ぶりで返した彼女の声をなんとなく覚えている。喧嘩していたのだった。

 ずっと頭痛が続いた。薬を飲んでもぶりかえし、身体も起ききらない。しかたないので静養に務めるが、やるべきことややりたいことはあるから手をつけてみる。週の半ばになってようやく頭痛は消えた。あらゆることが遅れて、ただでさえやりたくないようなことはどんどん後回しになって、痛みがむしろ現在を強調させる。未来への積立も過去の精算も退いて、臥せり続けるほどではないから、ただ毎日がある。疲れに疲れて、もう明日という日が来ること自体がめんどうくさいと口にして呆れられる。言ったそばから、思いがけずそのような過ぎ方を経験することになった。しばらくぶりに、回復を求めてしっかり休んだ。寒い日があって、雨の強い日があって、風の強い日があって、暖かな日がある。それだけを感じていく。偽物のスイカゲームをやる。偽物のスイカができた。