素描_10頭

 Heaven Can Wait. その名前の香水が販売されることをTLで知った。『天国は待ってくれる』。ルビッチの映画のタイトルである。天国は待ってくれる。

 ムエットに吹き付けられた香りを嗅ぐ。なるほどいい香りだ。しかしおそらくは、この香りを纏うならば、それは香料というマテリアルなアンサンブルが喚起するイメージ──想像よりずっと端的にさわやかだ──ではなく、「天国は待ってくれる」という言葉の甘い諦念のような、そして何より、映画において長く連れ添ったふたりの夫婦の死別を見送るあのクレーンのロングショットの質感をこそ喚起するだろうと思った。それはいわばイメージのお守りである。イメージはしかし揮発性物質によって薄らいでいく。お守りは時限式で、いつまでもロザリオのように握りしめるわけではない。どこかで忘れ、洗い流され、そしてまた纏い直される。日々の営みとともに代謝する。よく香水はセルフイメージに関係すると説明されるし、自分もそう説明する。ただし薄らいでいくものとして、とつけくわえる。いつか変わってしまう、いつか死んでしまう、いつか忘れられる、そうした霧のような自己のありかたを香水は教えてくれる気がする。メランコリーなしに、快活に香って消えていく。

 記憶を頼りに、というよりはもっと気ままに駅の周りを歩き回る。飛び交う韓国語に耳が快かった、そうした記憶を携えての散策はしかし朝早くということもあって追体験するには至らなかった、が、やがて朝からたくましいアジュンマ、あるいは親しみを込めて言うことが許されるなら、オンニたちがめいっぱい客引きしているエリアに出た。行きたかった店もそうしたオンニのひとりが積極的に客を呼び込んでいた。眼の前で3人連れの女性たちが入っていった。ここは11時から開店という情報があったのでそれまでの散歩のつもりだったが、20分は早く目的の店に入れそうだった。しかしもう少し散歩がしたかったので、店を通り過ぎて先へ進む。おそらくはこの数年で進出してきたのだろう、ポップなデザインの看板が頭上に並ぶかと思えば、デイサービスの施設や案内も目につく。
 移住は単なる国土や国籍の差異の問題に還元できない。彼ら彼女らはいつここにやってきたのか、そのことの具体性が途方もなく重要であると感じられた。残念ながら、土地についてとおりいっぺんの知識しかない私に、そのことの複雑さはわかりようもない。デイサービスセンターの前に掲示された、ふりがながふられた日本語教室の案内が目に入る。施設のロゴに老いた男女が描かれていることから、この学習の機会も老いた彼ら彼女らにおいて開かれていると理解した。2年前にこの土地を訪れたとき、ほとんど一言も日本語を解さないらしいオンニが静かに店の奥に座っていた姿を覚えている。韓式中華の店で食べた、真っ黒な肉餡のかかったチャジャンミョン。そして日本語が分からないオンニ。彼女は何年日本に住んだのだろうか。
 老境に至って日本語を覚えてみようと思う彼ら彼女らは、人生をどう過ごしてきたのだろうか。ここは済州島からやってきた人たちも多いという。おそらくは4月3日を経験してきただろう人々。そこで何を見て、聞いてきたのだろうと思う。そしてまもなく人生を閉じようとする時期にあって、どのような心持ちで日本語を学ぼうとするのだろう。想像することすら不躾に思えてしまい、考えることはやめて、そのふりがなを追う。初級1と初級2のクラスがあるようだ。まずは、ありがとう、おはよう、さようなら、そうした言葉を教室の老人たちはつぶやくのだろうか。また想像が及んだので、それはやめて、この掲示物に書かれた日本語を韓国語に置き換えることにした。

일본어 교실에서 공부합시다!
매주 일요일과 수요일의 19시15분~20시45분
초급1과 초급2의 크라스를 동시에 열려 있습니다.
돈은 한달 5000엔(교과서의 돈도들어 있습니다.)

 언니! 여기는 육개장입니다.と先ほど客を引いていたオンニが言う。そのオンニの横を、おはようございますオンニ、と別のオンニが本当にオンニと呼ぶにふさわしいその人に向かって挨拶していた。出勤してきたオンニと入れ替わるように、私のテーブルにユッケジャンが配膳される。すでに前菜が山と積まれていた。水キムチがおいしい。물킴치가 너무 맛있었습니다.と言おうかと構えたが、言うタイミングはなかった。会計はレジで縮こまっている老人が行った。선생님!とオンニが呼びかける。老人は私から1100円を受け取り、これ記念品やからとボールペンを差し出す。ペンの腹には開店35周年と印字されている。あとなこれ、スマホも使えんねんと私が持っているペンの尻の部分を触って言う。
 店を出て、特に用事はないがそのペンの尻の部分でアプリのアイコンをタップした。一度触っただけでは反応しなくて、もう一度、ぐっと押し込むように力を加えると通電して、アプリが開かれた。