素描_09結

 川を渡る。つい川面に目をやってしまう。時々、川は遊歩道の方へと溢れそうなほど、水位が増していることがある。雨が降ったわけでもないのに。しかし川の色もどこか尋常ではない。ひた、ひた、と岸に水が打ち寄せる。あと少し、もうほんの少しで溢れてきてしまう。実際、だらしなく水浸しになっていることもあった。呆けたような光景だと思う。災害と言うほどでもないが、歩道の機能は奪われて、ただ水が引くのを待つしかなかった。浅く沈んだ歩道は朝日を受けつつきらきら輝いている。どこからか流れてきた、くしゃくしゃのビニール袋をうかべて揺らしている。そうした、いわば事後の呆けた様子に陶然としてしまう。なにかが台無しになっているようでもあり、なにかが満たされているようでもある。冠水した道は、そうであるべき姿のようにすら思う。ただし、今日はたかだか水位が高いという程度で、その水の一滴も舗装された道を濡らすことはないようだった。ただ、冠水した日のことを思い出すだけだった。昼過ぎだ。ずいぶん眠い。
 
 もうずいぶん涼しくなって、仕事はいっそう楽になっていった。とはいえ暑さは見る人の気分を押し上げていたのだとも思う。うまく関わりきれないなと反省もし、しかしどこか冷静でないのか声だけが大きくなって、最終日にはかすれたようになってしまった。機械のように、身体というのは突如として言うことを聞かなくなってしまう。出そうにも出ない、不十分で耳障りな音が絞り出される。声を出すのがつらいと、思ったようなことが言えなくなる。思う、ということと、声ということは、決してバラバラにあるわけではないのだろう。かすれた声に乗っけられる思考はきっと限りがある。思考も身体のひとつだ。

 なるべく素直にものを言うことを心がけたい人はいる。面白かった、楽しかった、わざわざ言わずとも態度で読めるだろうそれを、わざわざ声に乗せて言ってみること。それは身体で応じるということだ、とひとまず言ってしまう。ごくありきたりな感想を、各々に唯一の身体で以て応じるということ。そのためには準備がいると思う。
 快感は、各々が代えがたい個別の存在であることを強く縁取るものだと思う。快感は輪郭にあると思う。あるいは、もともとの輪郭を乱すような体験によって、あらたに輪郭を定義し直すようなことそのものを、快感として感受するような。逆に言えば、快感は自己の輪郭に敏感でなければつねにあやふやなのだろう。そういうあやふやさからは言葉が出てこないし、そうであるなら思考も育たないし、素直さにも縁が遠くなるだろう。快感を覚えることはひとつのレッスンだ、とか思う。

 バン、と音が鳴ったかどうかは覚えていないが、停電になった。鳴ったのではなかろうか。そんな日があった。非常灯だけが煌々と、それは予備電源とかいうやつなのだろうか、なんというか知らないけど光っていた。その場を管理するひとたちがあたふたと様子をうかがう。うかがうというか、あたふたしているだけだ。もう自分は状況を見ているだけですごく面白くなってしまう。停電、物事が順調に進まなくなる、滞る、いいことはさしあたって思いつかないが、あらゆる偶然は、自分がその先にどんな手を繰り出すかの自由を保証してくれているようなものでもあると、考える。結局何も決まっていない、だから自由にできる。他方、そうしたあたふたをよそめに、停電ということを凶報と思ってため息をつく人がいる。どうしてそんなふうに考えるのか、先述の通り自分にとって自由な気持ちにさせてくれるこの事故を歓待したいというのに、自分の気持ちの中に閉じこもっている人がいる。楽しいじゃんと言っても意見は変わらない。だんだん、その変わらない意固地さが面白くなってくる。異なりとはどうしてこんなに面白いのか。私とあなたが違うということが、どうしてこんなにも快いのか。トートロジックだが、あなたと私が違う、という事実の確認自体が快いのだ。電気は通わない。通じ合わない。まっくらなビルの中で、誰も案内しない非常灯だけが煌々と、ただ単に光っている。そんな出口から出ていく人は誰もいない。わざわざ重くなった自動ドアを必死に、身体で押しのけるようにして、腕にその厚いガラスを食い込ませるようにして、開く。何も解決できない人群れが、ただ単にうろうろしている。真っ暗だ。先は見えないが、まさか歩くことができないわけではない。あたふたしている人たちにも見飽きたし、するべきことはあるのだから予定を変えてさっさと移動しよう。まだため息混じりのその人は、閉じこもっているようなのにやたらに足早で、そんなふうならどこか着くべきところに自ずと着くだろうと、安心したりした。記憶を頼りに適当に歩く。涼しいようだが、どこか湿気が混じり始めているような気もする。早足にまぎれて流れていった話題は、行くべき場所に行くという目的を前にしまりなくそこここに漂っている。何を話したのだろう。思い出せることはあまりない。あやふやな記憶だってある。そうこうしているうちに、着くべき場所には着くことができた。