萩尾のばら『プロローグ』

まずは自分の不明を恥じるところから話し始めなければなりません。

2021年の9頭、萩尾のばらさんを観たのはこの週がはじめてでした。その時ののばらさんの印象はといえば、ごくふつうの「新人さん」というものに過ぎません。この週で一緒になっているお姐さんを慕っているらしく、SNSを介してもその懐っこい様子は伝わってきて、しかしながらそれが余計に「新人さん」、すなわち業界にまだ馴染みきっていない、有体に言ってしまえば「プロ」ではないように見えていました。

翌週9中もそのお姐さんと一緒で、ここでものばらさんを観ています。前週とそれほど認識は変わらなかったものの、一回とてもいいと思えるステージがあり、その感想を伝えにはじめて写真を撮ったのでした。けれども、はじめての会話というのはお互いの背景が分からないものですから、そのステージがよかったという理由で写真を撮りに来ているというアクションの意味を、互いにすり合わせることは難しいのだと思います。これも有体に言ってしまえば、あまり意図が伝わらなかったかな、と感じてそのままに終わりました。

あえて話さなくてもよいような、いささかネガティブな話題から語り起こしたのは、そうした最初の印象が、ごく短期間でひっくり返されるという経験を、おそらくのばらさんではじめて経験したからに他なりません。

2022年1結。痛快な周年作の『JOY』でのばらさんへの視線は一気に変わりました。さらに半年後、7中で再見した『JOY』は振付もより魅力的になっただけでなく、パフォーマンスそのものも、かつてとまったく違う水準で演じられていることに驚きさえしました。

そして12結。『JOY』こそ見られなかったものの、7中で出していた『箱庭』そして2作目という初見の『誓い』ともに、心身ともに充実したとでも形容できそうな、本当に魅力的なステージに涙しました。はじめてのばらさんを見てからわずか1年と3ヶ月。不明を恥じる、というのは、このような資質をもった人に対して、まったくまともに目を向けられていなかったということです。もちろん、のばらさん自身が変わった側面も多分にあるとは思いますが、そうした変化の兆しについて他人が(もしかすると本人も含めて)先取りして分かるようなことはほとんどなく、ただ丹念に見ていくことでようやく何かが分かりかけるものだと改めて感じさせられたのがのばらさんだ、という話でもあります。

 

 

 

ここからは、最新作の演目や、関連するその他の踊り子さんの演目について具体的に踏み込んだ話をしていきます。お嫌な方はご注意いただければ。

 

 

 

 

 

 

2023年1結。2周年週の新作は『プロローグ』と題されていることがのばらさんのツイートで発表されました。おそらくは自己言及的な演目になるだろうと──「周年作」がしばしばそうした性格を持つことからも想像できる──、そしてそこにはのばらさんが踊り子というものを、また踊り子としての「私」をどう捉えているのかが示される機会になると思っていました。

では、実際はどうだったか。


冒頭、上手に座り込んだツナギ姿ののばらさんがスケッチ用紙のような紙束を持ちつつ、ペンで何かを描いているところから演目はスタートします。やがて不満そうな顔になったのばらさんが紙片を放り投げ、それが宙に舞ったかと思えば、のばらさん自身も踊りだします。こうしたオープニングは、2022年11結に演された黒井ひとみさんの10周年作『10年目』を想起させます。黒井さんものばらさんが慕う踊り子さんの1人であり、また黒井さんの周年週で共演した機会におそらくはこの演目を見ているだろうことも想像できると、両演目の繋がりの連想はそれほど恣意的とも思えません。ですが、それはもちろんこの演目を模倣したという話ではありません。

 

続く衣装替え、のばらさんはパンツスーツ姿で、いささか疲弊しているような面持ちでステージに現れます。おそらくは、絵を描くという「夢」を諦めて「現実」を受け入れてなにか社会人におさまったと見て取っていいでしょう。こうした姿からは、ふと中条彩乃さんの3周年作『ターニングポイント』を思い出しました。のばらさんがこの演目を見たかどうかはわかりませんが、同様な個人史への自己言及的な演目において、「社会人」であるところから現在の「踊り子」へと転身を遂げるというストーリーを辿るだろうことが想像できます。


およそ個人史的な自己言及を含む演目は、現在の自分をどのように肯定するかについてのドラマを作らざるを得ません。むろん、悩みを抱えたままそれでもなお、ということはあるにせよ、それであれ苦味を交えた肯定のはずです。直接的に踊り子像を提示するわけではありませんが、引退された美月春さんの5周年作『漫画家』も、あるいは葵マコさんの14周年作『うたうたい』も、こうした煩悶とその先にある創作することの肯定を描いた演目だったと記憶しています。

キャリアや立場によってニュアンスは変われど、表現の行き着く先が自己肯定になることは間違いないのです。問題は、どうやってそれを表現するのか、です。

 

『プロローグ』においても、自ずから「萩尾のばらはどのようにして自己肯定(を表現)するのか」に演目のドラマの力点はかかっています。

 

改めて確認すると、『プロローグ』はツナギ→パンツスーツという、周年作らしからぬじつに簡素な出で立ちで演じられています。美月さんの『漫画家』はリアリズム志向で、演目中はスウェット姿でこれといった衣装替えはなかったはずと記憶していますが、のばらさんの『プロローグ』は、自らの置かれた状況の移行を示すための衣装替えを一度は含んでいます。すなわち、ここには「踊り子」というものを華やいだ衣装を着ることで表す──それ自体が自己肯定としての内面の表象であるような──という道筋があり得るわけです。実際、『ターニングポイント』はそうした華やいだ衣装で「中条彩乃」が現れることの多幸感があり、『10年目』でもまた、衣装の華やぎ(「あえて」の批評性はあるにせよ)は「踊り子」を表象する肯定的なイメージとして通過した先に、「黒井ひとみ」であることの矜持を見せています。

しかしながらのばらさんは『プロローグ』は、パンツスーツを脱いだあとに残る白いワイシャツを羽織っただけの格好で立ち上がりを迎えます。踊り子らしい衣装という記号を通過することなく一挙に、この身体こそが踊り子である私を表現し肯定するものだとして示されるのです。一見してそれは、「夢」を追いかけられず受け入れた「社会」から再び「夢」の世界に戻ったと取れなくもありません。しかし、それだけではないように思います。

 

各々が持っている「身体」というものは、私(という意識)・肉体・衣服がそれぞれがもつれあってひとつのように重なっています。物理的な要素だけではなく、体へのイメージ、そしてまた私たちが着ている衣服も、イメージを介した広義の「身体」のひとつだと言えるでしょう。

ただ「身体」の内実は決してまとまっているわけではなくバラバラです。私という自意識が過不足なく働くこと、満足がいくまで肉体を整えること、気に入った服を着ること。これらのバランスをとりながら人は生きています。逆に言えば、それらはずっと満足な状態であることは叶わず、ときおり不満であったり、不調であったり、程度が過ぎれば病を迎えることすらある、さまざまな要素が干渉しあって生じる波の揺らぎのようなものです。

ひとつとして同じものがない、各々が持つ「身体」。しかしながらその「身体」を充分に見つめ肯定することは、誰にとっても容易ではありません。そもそも、「身体」がことさらに肯定/否定される認識の外にあるようなことだってままあるでしょう。けれども、ストリップというものは(見ることはもちろん、演じることにおいても)否が応でもその「身体」というものを意識せざるを得ない表現です。
のばらさんの『プロローグ』も「夢」と「現実」の対立から「夢」の実現を勝ち取るストーリーというだけでなく、なんてことはない白いワイシャツ越しに見せる「身体」、波のような揺らぎを引き受けるこの「身体」を現すことにこそ強く焦点を当てています。踊り子とは無葛藤な薔薇色の「夢」の世界ではなく、各々が持つ「身体」の揺らぎを、この私の「身体」を介して観客と見つめ直すことへ開く職業なのだと、そののばらさん自身の「身体」が、語らずして示しているように見えます。ベッドでは、不満げであったり、疲れ切っていたりするわかりやすい顔つきはすでになく、ただ「身体」の現れに従って探るように、あるいは心ゆくままに踊っている、いわば生きることそのものの成り行きにまかせてその都度に移ろう曰く言いがたい顔つきだけがあります。

ここでいくらか抽象的に展開している話は、もちろん明示的に演目の中で示されるわけではありませんし、示しようもありません。ただ、簡素な衣装から現れる身体の力──強度、説得力、何といっても結局は掴みどころのない──からは、あらかじめ手軽な言葉に置き換えられるような結論を持っているわけではないという、いわば表現という賭けに足を踏み出している感触が、確かに伝わってきます。

ストリップは、各々が持つ「身体」を表現の素材としながらも、それがすぐに表現として成立するようなものではないと観客ながらに強く感じます。物理的な肉体のコンディショニングは言うに及びませんが──いささか神秘化してしまうことが許されるなら──そこには踊り子による「身体」への"信"がなければ、表現としてまったく成立しないものだとも思います。
また同時に、ストリップという表現が築き上げてきた"信"の歴史に、自分もまた連なっていくこと。先行する演目の記憶との近似のみならず、さらには無数の踊り子たちが磨いてきた「ポーズ」の世界へと自分を繰り込ませること。もし『プロローグ』でのばらさんが切る、喩えようもなくすばらしいエルに打たれるならば、ここまでの繰り言は理解しようとするまでもなく、自ずから各々の「身体」によって、深く感じられることでしょう。

 

蛇足ながら、演目に即して字義通りに読むなら『プロローグ』は踊り子に至る前史を意味していると理解できます。他方で、萩尾のばらという踊り子は「これから」であると力強く宣言する演目だとも言えるでしょう。そして、そのようにあればいいと、のばらさんの末永く実りある舞台生活を願いつつ、受け取っています。