どくんごについてこんな話をしていた

Facebookを使わなくなって久しいが、ノートという機能を使って雑文をいくつか書いていた当時、どいのさんをはじめとする団員たちが以下の投稿に反応してくれたのを思い出した。いつの間にかノート機能もなくなっていたので、私的なアーカイヴの意味も込めてここに再掲しておく。
ちなみに
冒頭で自分が「アイドル」と呼んでいるものはたぶんLDHか何かで、そしてこのあとに「アイドル」の世界にがっつり入り込むので、認識が古い部分もある。
あと、どいのさんが言ったという「悪しき新しきもの」は、どいのさん自身のリプライをそのまま貼るなら

古き良きものとではなく,悪しき新しきものと結びつけ(ブレヒト

だそうだ。

 

2014年11月27日 21:51

バッドセンスについてのメモ(途中からどくんごの話)

歌番組を見てると、アイドルたちの衣装のバッドセンスぶりが凄まじいので、どういう合理性があってそれが選択されてるのか考えてみても、全然わからず、結局、バッドセンス自体が目的化しているのだなあ、と。

斎藤環のヤンキー論ではないけど、バッドセンス自体がある種、(反知性主義的と言ってもいい)連帯の符牒として機能しているのでは、という見立てはそう遠くないはず。自分たちのような狭義のパフォーマーにだって当てはまるだろう。

問題は、この符牒への抵抗として、高踏的な趣味性を貫くことが、本当に「抵抗」足りうるか、ということだけれど、おそらくそれは個人の趣味的な領域、つまり細分化されたオタク的な文脈に回収されて、無毒化してしまうだろう。というか、ヤンキー的な保守性、「古きよきもの」への憧憬にすら容易に接続されるのではないか。ヤンキーとオタクの相性の良さも斎藤が指摘するところである。

「悪しき新しいもの」と、どいのさんが打ち上げで誰かに言っているのを耳にして、やっぱりなあ、と勝手に合点がいってたのを思い出す。「悪しき新しいもの」とは、バッドセンスのことのようだが、明確に区別されるべきだろう。

どくんごにおいては、バッドセンス(キッチュな、と形容されることからも、ベタなバッドセンスではなく、パフュームなどへの接近を含め「批評的バッドセンス」ではないか、とは思う)なものとハイセンス(劇伴のマイケル・ナイマンだったりエレニ・カラインドルーだったりは、そうしたものの代表だろう)なものの扱いに、注意しなければならない。

バッドセンスとハイセンスの「聖と俗」的な対立項の統一という図式などでは絶対になく、それらが平然と同一平面に両立してしまったこの世界を受け入れることが、どくんごの演劇空間であり、「悪しき新しいもの」の実践ではないか、と、別にどくんごのことを考えていたわけではないのに、思わされた。

筆が滑ったついでに思いつきを進めると、それらがバッドセンスであれハイセンスであれ、それらのセンスの名のもとに集められる諸々は「宛先」が想起できる。逆に言えば、予め「宛先」が想起されうるようなものは趣味性の囲いを免れない。ところで、どくんごはバッドセンスでもハイセンスでもない。「悪しき新しいもの」という価値化未然のガラクタがありのままに積み上げられる。つまり、どくんごの芝居には明確な「宛先」を指定できない。作品内で登場人物たちがずれ込むコミュニケーションに終始するのは、どくんごという世界においては必然的な結果である。「宛先」不明の、メッセージが誰かに届けられようとするとき、誰もが受取人足り得ない。それは常に受取人不明であるため、差し戻されたメッセージもまた誤配となってしまうが、しかし、誤配とは、「届かない」ことであると同時に「届いてしまう」ことでもある。誤配は誤配のままあらぬ方へあらぬ方へとリレーされる...

自分自身の問題としては、どうも趣味的な「抵抗」の身振りに偏っているきらいがあるな、と思う昨今。今年たまたま「高踏的な」という形容を受けたことがあったけど、おそらく故ない言葉ではないだろうなあ。と愚痴めいたところで擱筆