パフォーマンスを終えて

その1回のために制作されるものという意味ではおそらく5年ぶりのソロパフォーマンスを終えた。率直な吐露として、今回はずいぶん苦労した。
本番を含めた出来不出来に関してはとうぜん、細々思うところはある。加えてそういえばと思い出したのはいくら本番が過ぎてもこれといった解放感などはなく、むしろ課題めいたものが片付けきれずに部屋の隅に積まれてる感覚が残ることだ。

ただ、面白かったのは、会場にいた知己のジャグラーからふしぎな感想をもらったことだ。具体的になんと言われたかは伏せる。それは私達の間でだけ意味を成す言葉のやり取りであるし、感想を発した本人にしてもそれがいったい何なのか、なぜそう感じたのか判然としていないから、ということもある。

この感想は、少なくとも自分の意識でしている範囲を超えていることについてだった。さらに言えば「作品」(自分のパフォーマンスは「作品」とあまり思ってないけども)が機能させるものでもないはずだった。
それでもそう感じられ、感想として共有されるとき、けっしてはっきりと意味が分節されているわけでない言葉が選ばれているのは、おそらく個人的な文脈もふくんだ密かな触発がなされたと思える。そうしたとき、パフォーマンスとしての役割は充分に果たせたと安心しもする。

演者と観客は、しばしば、あるいはほとんど常にどこかですれ違う。
意図の水準ではもちろん、こちらの無意識ですらなさそうな「何か」としか呼びようのない触発が、観客の内で勝手に生じる。それは良し悪しでなく、ただ生じてしまう。
この「生じ」に対して、パフォーマーはほとんど責任がないとも言えるが、それが起きたことを知り、分け合ったとき、こちらはずっと冷静でも、その「生じ」がわたしにも浸透してくる感じがある。言葉を媒介にしつつも、言葉未然の感覚の輪郭を互いに探るような時間が、ほんの短い間にもあり、実際こうして忘れがたい印象を与えもする。既にして、その「生じ」は観客だけのものではなく、お互いの謎としてそれぞれが引き受け直すことになりもする。
私は、言われたことを、ぼんやり頭に浮かべてみる。心当たりのない言葉をもてあそぶように、私の内に引き受ける。私はいくぶん私の観客になる、とさえ言える。


 

こちらの意図・意識している質を分け合うことができる喜びもある。それが具体的に何なのかは、これも伏せておくにしても、ストレートに伝わる感触は特別なものがある。

自分のパフォーマンスから、狭義のジャグリングの技巧の巧拙を読み取るだけでなく、微量ずつ存在する諸要素を、また各々の感度の高さに準じてキャッチしてもらえることがある。たとえばダンサーからダンス的なものを、ミュージシャンから音楽的なものを引き出してもらえると、単純な技巧への驚きを越えた私固有の質感が届いたのだなと了解できる。

今回はそうした固有性に関する感想を知人からもらうこともできた。くわえて、それは最大限私に好意的な観客の一部が時おり伝えてくれる類の感想であり、私が言われて最もうれしく感じるものでもある。
どうもはっきりせず、匂わせるような物言いになってしまうが、あまりそれを前提というか経験の指針にしかねないのもおかしいので、ぼかしておく。

 

パフォーマンスを制作・実演することは、単純に仕事であり、同時に喜びのひとつでもあり、それはある程度まで自己完結しているが、こちらの投げかけを誰かが捉えて、また投げ返してもらえることで、そうした完結性がにわかにゆらぐ。自己判断がくずれて、まあそれほど悪くないじゃないかと許せるような気分になる。

ことほど左様に、パフォーマンスの経験とは、パフォーマンスを媒介にした相互行為でもありうる。パフォーマンスの根拠はパフォーマーである私だが、その出来事は私だけのものではなくなる。あるいは「私」という領域が更新される。
「私」は身体や意識だけでなく「私」を見て、聞いて、感じる他者によっても作られている。舞台と客席で「私」たちは互いを見て、聞いて、感じ合っている。

この互いの"作られ"を豊かにすることがパフォーマンスの務めであり、喜びであるだろう。
そのことを、久しぶりに確認したのだった。