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10月16日の雑談



慰問集団てっぱ会の記録、「ある日のてっぱ会」を久々にアップロードしました。
てっぱ会自体は活動していましたが、私が参加するのは本当に久しぶりでした。映っているのは概ね禿頭のおじさんですが、ご覧いただければ幸いです。


先日のエントリでもちらっと触れましたが、山形国際ドキュメンタリー映画祭に初めて参加しました。世界各国から著名な映画人が山形に馳せ参じるこの映画祭、街中を歩いていますとたくさんの海外の方やスタッフ、フリーパスをぶら下げた観客などとすれ違い、なにかこれは楽しげなことが起きているぞという気分にさせられます。
私が観られたのはペドロ・コスタ監督『ホース・マネー』と三宅唱監督『THE COCKPIT』の二本。コスタの新作はヴェントゥーラもの、と言っていいのかわかりませんが、コスタ作品には欠かせない存在となった黒人男性を主役に据えた作品です。何年か前に発表された短編『スウィート・エクソシスト』の場面がほとんどそっくりそのまま挿入されているのも印象的でしたが、ずいぶんフィクショナルな仕掛けが多いなあという感想。私があまりペドロ・コスタのいい観客ではないというのもありますが、正直に言って移動の疲れも相まってしっかり観られなかったのが本当のところ。でも、相変わらずの画面の美しさではあっても、なにか違和感を覚えることもしばしば。前作の『何も変えてはならない』もそうでしたが、無責任に思うまま言うなら、ショットの作りこみがあまりよく作用していないのではないかな。。うーん、掴みきれません。

対して三宅監督の『THE COCKPIT』は、このブログでも何度か名前を出したラッパー/ビートメイカーのOMSBの制作に密着、というそれだけでもうすごく見てえ!といった作品であり、仙台短篇映画祭で上映されたものの仕事であえなく見逃した積年の恨みを晴らすがごとく勢いでスクリーンに食入りました。会場も急遽大きい場所に変更、そればかりか立ち見客も数十名という盛況ぶり。いや、他人事ながらこの盛り上がりは嬉しくなりますね。
で、肝心の感想ですが、フィックスを中心にビートをサンプリングするシーンが中心の前半は、もう足を踏み鳴らしていいぞ!と叫びたいほどの瞬間がいくつもありました。
画面は手前から順に制作機材であるレコードプレーヤーにMPC、OMSBとその後ろはBimやそのほかのラッパーたち、三脚に設えられたマイク、窓、というレイヤーを成しています。この層構造は「制作」という主題に収斂されず、各々のレイヤーで別々の出来事が勝手に生起しているさまを映し出します。するとどうなるか。

わたくしのパフォーマンスユニット、マヤマで「b.a.p」という番組を作るにあたっての最も重要な参照項の一つであったゴダールの『はなればなれに』のマディソン・ダンスシーンでは、サウンドトラックと映像はあからさまに分離されます。どういうことか、ちょいとYoutubeから拝借してみてみましょう。


ダンスする音楽は無残にカットアウトされ、足を踏み鳴らす靴音が響く。するとまたダンス音楽が戻ってきて、また消える。そしてそれぞれの心情を語るゴダールの声。最後はダンスそのものも、バラバラに離れていく。映画とは徹頭徹尾構成主義的なメディアだ、と『ゴダール的方法』の平倉圭さんは書きましたが、まさにこのシーンを見ると、映画が世界を視-聴覚情報として再構成しているのがわかります。

むろん『はなればなれに』は概ねフィクションとして周到に「再構成」された(唯一、有名なルーヴル美術館のダッシュシーンは隠し撮りのゲリラ撮影)作品ですが、『THE COCKPIT』は、ドキュメンタリーとして、目の前で起こる出来事を、カメラという記録装置によって、文字通り機械的に記録したにすぎません。そこに映っているのはただの偶然であり、意味を持ちません。世界の、生活の、バラバラの断片。しかし、それは「編集」という手続きを経ることでもって、偶然が組織化されるのです。

映画冒頭、OMSBはレコードをターンテーブルに乗せようとします。そこで画面は、複数回のジャンプ・カットによって切断されています。人がフッといなくなったり、別の場所に現れたり。この断続的な人物の移動が、画面のレイヤーを意識させます。しかし、エアコンの空調音でしょうか、低い「ゴー」という音がかすかに間断なく聞こえるようで、OMSBが乗せたレコードからまさに音が鳴り出すその時、入れ替わるように「ゴー」という音がフェードアウトし、爆音でメロディーが鳴り出し、ブラックバックにタイトルが映しだされます。「ゴー」という音が鳴り続けることで、ジャンプカットされた諸カットを繋ぐ紐帯となっています。これはかなりフィクショナルな操作です。映画の始まりから既にして、編集の作用によってOMSBにとってはありふれた「日常」が組織化されているわけです。このような文脈で前半のサンプリングシーンを観るとき、ほんとうに驚くほど素晴らしい瞬間が生起します。



予告編を見れば分かる通り、制作はごく普通の六畳間ほどの狭い部屋で行われています。まさにコックピットよろしく、という具合。画面一番手前の機材に向かって一心不乱にビートを抜き出すOMSB、そして後ろで埒もない雑談に興じるBimを始めとした友人たち。サウンドトラックは、抜き出されたビートを最も大きい音量で拾っています。その後ろで会話する声はほとんど爆音にかき消えんばかりで、何を話しているのか、内容の取るに足らなさも含め、勝手に流れていきます。しかし、MPCのパッドを叩く指を休める束の間、フッと後ろの声がメイン・ボリュームとして耳に届き、指を動かせばまたビートがその音をかき消す、この繰り返しが、まったくの偶然であり、無関係に独立したふたつの音を、仮初にでも関係させてしまいます。また、それ自体がひどくヒップホップ的なリズムに感じさえもしました。
このシーンにはカットを繋ぎ合わせたりする意味での編集はありませんが、カット内の関係を「編集」的に関係させます。私たちは、それらが関係ないと知りながら、関係させてしまう眼と耳を持っています。しかしそれは離散的で、あくまでも互いにバラバラなままです。OMSBはビートを作るだけ。友達は駄弁るだけ。まったくありふれた日常です。しかし、それは、まさしく映画そのものの似姿ではないでしょうか。
奇しくも、三宅監督はこの映画の編集中、OMSBと自分とが鏡像関係にあることを気づいたと言っていました。それは図としてもそうですし、なによりテーブルに備え付けられた機材によって「編集」を行うことによって。そう思うと、仮タイトルにすらなったという、OMSBのリリック「(ほぼ運任せ)気分屋の決闘」というのもなにやら示唆的に見えてきます。


と、思いつくままキーボードを叩いていましたら、長くなってしまいました。
前半にばかりウェイトを置いてしまいましたが、OMSBの恐竜みたいな首の振りをとらえたショットやら、Bimと靴箱で遊ぶ場面とリリックを書くパートの穏やかさやら、それこそペドロ・コスタの『何も変えてはならない』にもあった、リテイクに次ぐリテイクの緊張感はあるものの、やはり笑えるレコーディングの風景やら、もうすごくいいのですよ。端的に、元気になる。身体に効く。
しかしですね、最後などは、これでいいのかなあと思ったりも。単純にもっと長く見たい、というのはもちろんだけども、常磐道の風景というあの窓外の映像は、なんか肩透かしでした。予告編で見た時から、おそらくラストショットなのだろう、という予感はありつつも、OMSBともBimとも音楽とも関係ないんじゃないかなあと。終わりのための終わり、というふうに見えてしまい、どうせなら、あの日常が曲の完成という仮のゴールを迎えたのちの、弛緩した日常もまた映画として眺めてみたいと思いました。

なんて言って、一回しか観ていないので、もう一度観る機会がほしい。というか、『Playback』も『やくたたず』も観れていないのだから、ああもう、まったく、です。



あとはまあ、三宅監督も言っていたとおり、OMSBを聞けと。


来月、三回目となる「多夢多夢茶会」を開催します。詳しくは次回。