20190312 ドッツトーキョーの謎と快楽

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私用で上京していたので、半年もタイミングを逸していたドッツさんを観に。大好きな「東京マヌカン」「サイン」に初見の「しづかの海」そして私的ベストアイドル楽曲のひとつでもある「サテライト」...何だってこんなに楽しいのかとしきりに笑ってしまった。

 

色々なアイドルが好きでも、こんなにフロアで笑ってしまうのは、ゼアゼアとドッツだけでした。最後に宣伝などありきたりだ。今言おう。もしドッツトーキョーを見ていないあなたが、また見ようと思っていながら私のように機を逸し続けている君がそこにいるなら、3月24日に東京キネマ倶楽部へ。

 

 

 

ドッツトーキョーのフロアでは、まるでステージにいるかのように笑ってしまうことに気づいた。それは比喩でなく、自分が一番笑っている場所が、なぜかここにもあると感じてしまった。

 

パフォーマンスとは、こんなに面白いことがあるのかと思ってしまうくらい楽しいことで、何のお為ごかしもなく、そう言えてしまう。シンプルに快楽とすら言える。「楽しい」ということが、些かはしたないと思うほどに。それはパフォーマーの密かな特権であるはずが、ドッツトーキョーのフロアにあっては、そんな秘密はなかったことのようで、明らかだ。ただし、フロアがステージだ、ステージがフロアだ、あるいはステージとフロアの境界線はない、と何かが分かったことのようにして言ってしまうことは避けないといけない。なぜなら、パフォーマンスが、何故こんなにも私を楽しくさせてしまうのかについては、楽しむ私にも依然として謎のままであるからだ。こんなにも楽しいのだが、それについては何も分かっていない。ただ、ドッツトーキョーのライヴ空間においては、そこにいる人々が等しくこの謎に向かって手を伸ばしてくるくると旋回して、分け隔てなくパフォーマンスの快楽を分配しあっている、そんな感触が確かに残る。この謎と快楽をめぐる旋回運動が、人をライヴハウスに(時には東北の美術館に)何度求心させただろう。

 

 

夜はscarlet222さんと雑談。外苑前駅から青山一丁目駅に地下鉄で移動して、何か適当な店があるだろうと思ったら何もない。ザーザー降りの雨の246号線を喋りながら歩いてまた外苑前駅にリターン。ようやく見つけたマクドナルドすらメンテナンスで早仕舞いで、また大笑い。ほとんど完璧な夜であった。

 

 

20190306 小津安二郎とダンス

1週間ぶりに帰仙、の車中。今回は荷物が多くてPCを置いてきたので前の記事もiPhoneで書いてみたけど、しんどい。面白い本を読んだので、その話題もあるのだが。(大量に本を売ったのに、また買ってしまっている!)

 

最近、友人が「小津安二郎の映画にダンスを見る」、という主旨のWSに参加してきたのでその話を聞いた。話のとおり映像を見ると、なるほど確かに精妙に振り付けられたとしか思えない役者の足の運び、体のひねり、そして劇伴がそれを"ダンス"にしてしまう。しかも、完璧なコントロールだけでなく、その外しまで含んでるのだから、やはりとんでもない。これは小津の能力を超えて、金銭的時間的余裕(映画制作において、両者はしばしば同じ意味だ)が許された制作環境が実現した側面もあるだろう。

 

これは本筋から離れたオマケだったようだが、『秋刀魚の味』では、佐田啓二笠智衆の間でごくミニマルな手の仕草がシンクロし、やはりそれが脱輪するかのように一人の岩下志麻へ引き継がれるシークエンスも見た。これがもう、本当に素晴らしいとしか言いようがないシークエンスで、説明を聞くために眺めているだけで、涙が出てしまう。男優二人の手が見える居間の場面では、岩下志麻の手は見えなくて、ひとり二階の自室に戻り、それを追った笠智衆がかける言葉に背中を見せたまま応答、笠智衆が去ると、綺麗にまとめられた髪を右手で撫で上げる...ここでようやく岩下志麻の手が映されるのだが、すかさず正面から切り返されると、両手でメジャーをくるくると指に絡めて弄んでいるのだ。雄弁な手の連鎖による、言葉にしない思いの表れ。

 

やー、WSに参加してないけど、小津をまた見たくなってしまった。いや、家に着いたら、ひさびさに何か見よう。『浮草』か『小早川家の秋』か。松竹から離れた関西ロケで、カメラが宮川一夫中井朝一鴈治郎ものであるこのふたつは、小津に親しくない私には、小津の小津的な圏域から少し外れたところが好みなのだ。

20190303 ゼアゼアのおわりの日

終わっちゃった。ゼアゼア。2019年2月28日木曜日。雨。

 

There There Theres」の表記から全て大文字の「THERE THERE THERES」へ。ここではない、遠い彼方をイメージさせられるそのネーミング。ゼアーゼアーゼアーズ。黒い羽とセーラー服。そのセーラー服も、大胆にリメイクされた。それらは一旦、あるいは永遠に終わった。我々の中に生き残るが、このグループが活動することは当面、もしくは一生無い。「解散」してしまった。

 

この事実について、わたし自身はどういう感情なのか、やっぱりちょっと定まらない。解散がアナウンスされた段階では、あてのない悔しさに支配されていたけど、今は続きが気になっている方が強い、かもしれない。「THERE THERE THERES」が「解散」したという端的な事実に対して、それを入れるちょうどいい塩梅の箱が見当たらない、という感じ。ただそれは、間違いなく目の前にある。

 

ラストライヴがどうだったか。それは素晴らしかった。と思う。ステージのパフォーマンスもフロアのレスポンスも、最後だから、という弾け方ではない、いわば"いつも通り"のライヴだった。

 

 

 

 

でかい荷物を宿に預けて、夏にも来た恵比寿リキッドルームへ向かう。雨だし、何より開場してしまってるから、早足で。夏に入った、歩道橋の下のスペイン料理店の前に15人くらいオタクが溜まってる。18:10頃。

リキッドルームは、中に入るとすぐ階段で、それを一度を登って、フロアに入るために、またすぐ別の階段を降りる。チケットを見せてドリンク代を払うと、次は知り合いにサイリウムを渡された。そして、見にきてるアイドルとすれ違ったりして、あーこの人も来てくれたのか、なんてどの立場なんだか分からない感慨にふけったり、久しぶりに話せたオタクと他愛もない話をする。時間が来て、ゆるめるモ!のパフォーマンスが始まる。

 

私としては本当に異例なことだけど、出なければならない電話がかかってきてしまったので、中座した。いい位置で見てたんだけれども、入り直したら最後方で柱の見切れのなかステージを見る。モ!はあまり詳しくないので、知ってる曲もあれば、初めて聞く曲もある。友人は、あのちゃんのダイブで顔を蹴られたらしい。

 

出演しているグループに、こんなことを言うのは全く不躾で酷いことなんだが、最初2マンが発表されたとき、ワンマンじゃないのか、と思ってしまった。なんで最後なのに誰かとやるのか、理解できなかった。好き嫌いじゃなく。最後に、多くの予想通り「さよならばかちゃん」が歌われる。

 

転換。ゼェアー!ゼェアー!と、コールが野太い声で繰り返されて笑ってしまう。私は、このフロアが本当に好き。夏のワンマンと同じ、「IKENIE」に続く出囃子が流れる。太い低音。幕が左右に開く。上手からメンバーが躍りだす。私だったら、もうちょっと間を与えて、幕が開いたらもうメンバーが踊ってる、というやつをやるだろうなと余計なことを考える。余計なことを考えるライヴは、往々にしていいライヴである。ただ、そのあとはあまり考えごとはしなかった。だからといって悪いライヴではない。いいライヴだった。

 

ベルハーの曲をやるのもゼアゼアだから、躊躇いなくい言うけれども、涙が出たのは「タナトスとマスカレード」と、そしてやはり「asthma」だった。「タナトス」は何度見ても泣かされてしまう。ベルハー/ゼアゼアの、ある部分が結晶している、本当に素晴らしいナンバー。文字通り轟音に撃たれるように膝と腰を屈して崩れる、あるいは逆に轟音を浴びるように、両腕を伸ばしながら胸を逸らして仰け反り首を回す、あの振付。そして「asthma」の、バカでかいトラックの音にかき消されるようにして、しかしどこまでも溌剌と歌っている声。アスマは、あの音の壁に潰されるギリギリで聞こえてくる歌のメロディを受け取ることが、アスマ体験なのだ。一方で、ゼアゼアは最後に、「Sunrise=Sunset」という、あまりにもはっきりと届けられる歌声のアンセムを作った。いや、これも泣いてる。

 

セトリ。

https://twitter.com/rubysoho67maas/status/1101109416949014528?s=21

 

最後はゆるめるモ!とのコラボ。始まる前に、チラホラとフロアを抜ける人が見える。自分は残るけど、その気持ちは何となくわかる、気がする。「なつ おん ぶるー」「夏のアッチェレランド」。写真を撮って、ステージから全員がハケる。オタクの法螺貝が吹かれる。

 

客電がつく。出口の上手方向に客が一斉に動く。ぐしゃぐしゃに泣いてる人もいるが、少ない。ホールは仕切りがいないので、外に出る人・ドリンクを交換する人・フラワースタンドの写真を撮る人・モ!の物販列に並ぶ人・フードのカレーを買う人・それを食べる人・何となくいる人・ゼアゼアの物販を待つ人、などで動線崩壊。

 

なんとか外に出たら、知り合いがタバコをふかしていたので、こんなライヴというのに、お互いバカのような軽口を叩いて笑った。またどこかの現場で、と別れてiPhoneを開くと、22:15だった。

 

 

 

なんで2マンだったのか、なにか事情はあったのかもしれないが、結果的に良かったと思っている。あまりにも納得しがたい最後を、しかと最後にするため、つまり、その終わりは"みんなのもの"であるとするために、オタクだけではなく、同じアイドルからも、見届けられること。実は、これより幸福な最後は考えられないのではないか。ゼアゼアが素晴らしいのだとしたら、オタクにとってだけではなく、アイドルにとってもそうだったに違いない。ステージとフロアの縦の関係だけではなく、ステージの袖で次の出番を待つ同じアイドル同士の横の関係においても、その交点に位置するゼアゼアがいなくなってしまうことは、大きい出来事のはずだ。であれば、同じステージに他のアイドルがいることは、自然なことだったかもしれない。

 

 

生まれたときから予め彼方にあったゼアゼアたち、と頭によぎって、これを終わりにしてもいいけれど、また、こんな風に綺麗に終わりたくないと思ってしまった。結論があってもなくても、手の届かないところで終わってしまった。さよなら、と言っても、まだ次があるから、さよならではない。でもやはり、さよならなのだ。

 

 

今日と明日、メンバーそれぞれの新しい活動が発表される。

 

https://twitter.com/koji210/status/1101906927762595841?s=21

20190223 インスタの動画

いい加減、家の片付けに飽き飽きしてきたので、ジャグリング。
こういうときは、闇雲に体を動かしてもそれなりに満足するのだが、満足すると終わってしまう。ただ、さしあたって具体的に練習したいこともない。その練習したいことがない状態をそのまま人目に晒すことで継続を図っていくことにしてみた。まとまってきたら、なんて考えてると何にもしないだろうし。

 

それがこちら。

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そしてこちら。

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まとまりもないし、新味もないのでヘボだなー。と思うが、若いジャグラーに褒められたので大変嬉しい。ジャグリングを褒められるのは、嬉しい。良いと思ったら、なんでも積極的に褒めてほしい。

 

 

小袋成彬さんがイギリス移住、のニュースを見る。どえらい行動力とくっきりとした展望に、シャキッとさせられつつ我が身を省みて落ち込む。最近は人と会ってもシケた話をしてしまいがちで、猛省。

 

明日は本郷さん抜きで、相澤先生と二人。久々なので、流れを調整。

20190217 Lucas Zileriというジャグラー

インスタで流れてきた。楽しそう。

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技が面白いのでフォローしてるだけでろくに調べてなかったけど、ショーのティザーみたいなのは既に出していた。部分的でわからないけれども、テーブルの音色に差を出しつつも、音楽によりすぎず、補助的な要素にとどまってるのも品がいい感じがする。

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これはキャップとボールのルーティン。後半ちょっとよくわからないけど、ピンポンラケットとは別の展開があったのも今知った。キャップの前後ろを入れ替える動きだけでも、なんかおもしろい。

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だいたい8年前。この人が上の動画みたいになるんだから、すごい。

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最初に見かけたのがこの動画。19分くらいに出てくる。てっきりDOCHの学生なのかと思ってたら、ESACの生徒だったらしい。(不勉強なんで、全然調べてないし、この動画も全部は見てない)

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丹念にワン・アイディアを練り上げていく形は、やはり強いし魅力的なんだけれども、移り気な自分には真似できそうにないのだよな。でもキャッチーだよなあ。

 

 

古いVHSを処分してて、昔テレビに出演した録画だけサルベージ。17歳の自分、受け答えがもやっとしてて本当にひどい!そのくせ、心の中ではイキリにイキっていたわけで、醜いですねえ。こういうのと付き合ってくれていた年長の友人たち、本当にありがたい。

20190205

 

natalie.mu

 

この引用、キマりすぎてズルくないですか笑

 


三人体制になってから、一度もライヴを観れていません。
お疲れさまでした、というにはちょっと早いですね。あと一ヶ月半。


昨日の記事で、震災をめぐる映画に対して違和感というか、疑義を抱いた感想を書きましたが、私にはアイドル受容と震災の経験が重なっている部分が強くありまして。どちらも当事者性と複数の視点、何より強い感情が行き交う場なのです。そして、震災という災禍は、まるでアイドルのライヴのように、ある種の解放感をもたらしていました。
「震災以後」などという区分も手垢にまみれてしまいましたが、個人史的には、アイドルという文化の爛熟は、やはり「震災以後」の空気を感じさせるのでした。そうした私の震災の文脈は、うまく整理しきれておらず、そうした整理のされなさによって、正しく映画の狙いを受け取り損ねているのかもしれない、とどこかで思っています。まあ、これはちょっとおきます。

 

ドッツさんも、仙台にお招きしたとき、被災地を訪ねられた。
「アイドル」というジャンルにどこまでも自覚的なドッツさんが、直に被災地へ訪れることは、本当に筋が通っているな、と思ったものです。

  

あんまり長く書く気がなかったのに、喋りだすとだらだらみっともないので、一旦切り上げます。

 

関係ないことを一個書いておきたいんですけど、ドッツさんの振付、とにかく最高で、こんな振付をできるのはベルハー/ゼアゼアの主な振付を担当していたYUKO先生くらいでは、と思ってたら、まさにYUKO先生の振付であることが昨年末明らかになって、ほらやっぱり!と一人で盛り上がってました。全くどうでもいいな笑

 

これがとにかく好きです。


20170930「Dash De Koi」「Goa Than Words」LIVE映像@TOWER RECORDS 梅田NU茶屋町店

20190203 『二重のまち/交代地のうたを編む(仮)』を観る

休日だというのにまたも映画を観に。

 

komori-seo.main.jp

 

昨日は一昨日に引き続き、小森はるか・瀬尾夏美の映画と、濱口竜介岡田利規両名をゲストに交えたレクチャー&トークも。

 

小森・瀬尾の連名の共作『波のした、土のうえ』『二重のまち/交代地のうたを編む(仮)』は、どちらも撮影編集を小森さんが、テキストを瀬尾さんが書く、という形式のよう。後者は今日が世界初公開、ということで、場内もにぎわい、なにやら遠征してきた方々も少なくない様子。

 

とりあえず新作の『二重の〜』について、ざっくばらんに書いておこう。

 

まず『息の跡』で断片的に見えていた、思わず目を惹くショットの魅力が、ファーストシーンから息づいていて、バスの椅子に座る少女(古田春香さん)の姿を逆光気味に捉える最初のショットには、思わず心を掴まれた。トークで濱口監督が開口一番「傑作であることを確信した」と語るのも頷ける素晴らしいショット。加えて、そのカメラが古田さんの主観ショットのようなポジションに移り、さらに逆位置から切り返される流れがまた、いかにも「映画」という手触りなんです。
そして、ちょっと違うことに気を取られて、どこが最初だったか見落としてしまったけれども、少なくとも前半に無人ショットが出てこない。画面には常に人がいて、何かを語っている。そして、女子高生がすべり台から滑り落ちてきたり(カメラはすべり台の着地点を横から低く捉えていて、そこにいきなり足がニュッと現れるのが、なんともおかしみがある)、子供がテレビの画面にペンを突き立て、タブレットのようにして扱おうとするさまなどが、余白というには贅沢なほど、際立つ細部として画面に残されている。

 

この映画は、陸前高田へ15日間の滞在制作を行って制作したものとのこと。出演者は、公募によって集まった"震災の非当事者"四名。先述した古田春香と米川幸リオン、坂井遥香、三浦碧至のそれぞれが、被災された方々から、そのお宅に寝泊まりしながら直接話を聞き、聞いた話をカメラの前で語り直すまでが前半部と言えるだろう。このカメラの前での語り直しは、ブラックバックのスタジオのような場所で撮影されており、カメラに正対する形で行われている。正直、私はそこで語られていた話をほとんど覚えていないのだが、全員がとにかく「なんか」「なんだろう」と言いよどみつつ語ろうとする姿は、生々しさの残るものとして印象に残った。
ちなみに、レクチャーで瀬尾さんが説明するところによると、この映画のプロジェクトは、被災から七年という時間を経て、今だからこそ被災者の語りを"継承"すべきではないか、そしてまたそれは被災から遠く離れた(時間的にも空間的にも)人たちにこそ、伝わりうるのではないか、という発端から企画されたものと、おおよそそのように理解した。だから、その「なんか」「なんだろう」という言いよどみは、今まさに"継承"が行われている身体の現前として、記録されているかのようだ。

 

映画は後半、瀬尾さんの「二重のまち」という陸前高田を舞台にしたテクストを朗読するパートに移行する。このテクストは、2031年の未来に語られる物語という設定ではあるが、実際のモデルの経験が下敷きになっている。春夏秋冬の四つの物語が並ぶ構成になっており、それらは出演者四名に振り分けられ、一人が一つの物語を朗読する役割を与えられる。映画では基本的にすべてナレーションによって処理されるが、実際は陸前高田の住民の方々を集め、屋外で朗読会を行っている。映画は、すべての過程を経て、四人が一つの部屋に改めて集い、15日間の体験を振り返ることで終えられる。語られるすべてを聞き届け、理解することの困難、あるいは不可能について吐露する。

 
それにしても「夏」を担当する米川幸リオンさんの、夜景のシーンがまた絶品。たしか冒頭に"夏"とナレーションがかかるとき、画面が昼から夜に切り替わって、陰るリオンさんの顔を仰角気味に捉えるショットの絶妙なタイミング、そして誰もいない陸前高田の夜の街を歩く姿を横移動のトラベリングショットで映すシーンがめちゃくちゃに素晴らしいのです。

 

 

だがまあ、書いていてもそうなのだけど、画面から得る"映画"としての魅力と、プロジェクトの狙いが、私の中でひとつのものにならない。それはそれでよい、ということかもしれないけど、やはりいくらか引っかかるものがあった。もしかしたら、プロジェクトは書籍や展覧会にもわたるものだから、映画はサブテキストのひとつなのかもしれない。少なくとも、映画を観ただけでは、レクチャーなどで繰り返される"継承"行為に関わった感触はないし、"継承"行為を試みた人たちのドキュメンタリーという記録とみればいいのかもしれないが、いまいち腑に落ちない。映画は実際に被災地へ赴くきっかけなのだろうか、それとも想像を介して"継承"行為に近づくということなのか。

 

濱口監督の感想ばかりで気が引けるが、私も、最後の振り返りのシーンが、やはり違和感のもとの気がしている。そこで起こったことの記録としては重要なのかもしれないが、わかり切ることができない、完全に聞くことはできないという煩悶から彼ら彼女らの誠実さを見ることで、私は妙に居心地の悪い安心感を覚える。こう言ってはなんだが、結論として与えられたそれは、予め分かっていたことだからだ。観客として、映画を見ることで、最終的に自分の足場が揺れることはなかった。

 

 それでも、やはり観る喜びに乏しい映画ではないと思う。すでに書いたように、画面に映されている細部の魅力には、とても力がある。慌ただしく前日ギリギリまで編集を行っていたとのことなので、今後別のバージョンが公開されるかもしれない。

 

 

 

帰ったあと、先日イベントでいただいた豆があったので、撒いた。
それで思い出して、値引きされた恵方巻きを目当ての卑しい目的で近所へでかけたら、どこもすっかり売り切れていた。風習が浸透したのか、入荷数を減らしたのか、卑しい同類が多いのか。