20190331 幽霊とどくんご

scarlet222.hatenablog.com

 

先般のドッツトーキョー9thワンマンで展示されていた絵画の作者笹田晋平が、なにゆえドッツトーキョーと関わり合うことになったのかというお話。
笹田さんは西洋古典主義的な絵画を再考し、またあり得たかもしれない日本美術史という「幽霊」に取り憑かれており、加えて「王道だがへんてこ」な点でもドッツと共振する、と最近お馴染みのscarlet222さんは指摘します。

 

しかし改めて「幽霊」というのは面白いものです。それは存在しないからこそ私自身の妄執として強く"取り憑かれる"だけでなく、私ではない他者として浮遊するもの。認識のフレームの外にあるようで、私のフレームに重なり合うもの。

 

この話をふんふんと読んでいたら、自分の過去に書いた記事を思い出しました。3年半ほど前。初ベビメタの後らしい。

 

keisukeyuki.hatenablog.com

 

ここで書いていたのは、例によってどくんごについて。
美術家の池田剛介さん(瀟洒な装丁の本が出たばかりで、すでに購入済。読むのが楽しみ。)の記事からの連想を広げていますが、はっきりと「幽霊」についてふれています。

 

そう、どくんごは私にとって「幽霊」を感じる場でした。

 

過去形で書いたのは、そう感じなくなってしまったからでなく、打ち上げで演出のどいのさんにそんな話をしていたら、旧団員の方に珍しく強い疑義を呈されたからで、ふーむ勘違いなのかなあと思うこともあったからですが、やはり今もって歴史の中で無名なまま死んでいった旅芸人たちの幽霊が、無数に呼び出されるような気配があるのです。

 

といっても、どくんごのテントは不穏な空気も懐古的な空気もなく、むしろ手作業のあとや生活の凡庸な跡がそこここに放り出されている。だからこそ「幽霊」がいる。「幽霊」たちは、特別な存在ではなく、我々と全く同じ存在であり・我々と全く違う存在...レトリックではありません。この私がワンオブゼムであると同時にユニークネスであるのと同じように、幽霊たちはかつての私であり、私ではない者たちの無限の重なりです。再度引用しましょう。保坂和志『朝露通信』。この本はどいのさんにあげてしまった。

 

僕はこの『氷川清話』を読んでて思った。僕のように寒さに弱く、ちょっとでも寒いとすぐに風邪をひくような人間は子どもの頃に死んでいた。昭和三十一年に僕が生まれる前、僕は何度生まれても小さいうちに死んでいた、勝海舟の言葉を読んでいたら幕末明治維新の空気が急に身近になることがあり、ああ、自分はこの頃やその前やそれよりずっと前の時代に生まれるたびに死んだんだなあ、と不意に納得した。

 

 

語り手の「僕」は当然生きている「僕」ですが、「僕のよう」な者たちは、過去何度も死んでいる。この世界において「僕」はただ一人だが、ワンオブゼムであり、であれば歴史の上でも同様にワンオブゼムとしての「僕」が死んでいる。唯一であり多数という矛盾の隙間を埋めるように「幽霊」が現れる。

 

 

 ドッツさんは、ラストワンマンという事実上の解散を経て、しかし変わらずSNSで・ちゃんたちの様子が動画やツイートを介して伺えるようになっています。これが奇妙で、なにかパラレルワールドで変わらず・ちゃんたちがライヴをしたりしているような、ひどく他愛ないのに強く心に訴えかけるような...ノスタルジアとでもいいますか、そんな感情を引き起こすのです。ここではないどこかに、・ちゃんたちがいる。やはりそれは「幽霊」のようです。当たり前で、特別ではないが、唯一でかけがえのないものとして、それぞれのタイムラインに浮遊する「・」という「幽霊」。