シネマ大道芸

今月の21,22日は川崎市にて開催される「シネマ大道芸」へ出演いたします。
日本初の、映画をテーマにした大道芸イベントと銘打って、14組のパフォーマーが川崎駅周辺の施設やアーケードでショーを行います。さて、それにしても川崎で映画をテーマとは、と思ったら川崎市は「映像のまち」ということだそうです。いずれにせよ、「映画」をお題にいつもと少しだけ毛色の違うパフォーマンスが各所で見られるのではと思います。近隣の方はぜひ足をお運びくださいませ。


このパフォーマンスに向けて選曲作業していて気づいたのは、年少の頃に熱中したキューブリックの映画の音楽の使い方にずいぶん影響を受けているなあと。既成の曲をエンドクレジットなどで流すときの切れ味、なにか映画のトーンを解釈の余地なく決定づけてしまうほど強烈なそれに、痺れたものですが、映画を見始めた最初の頃に気に入った作家は、既成曲を使うことに長けていた人たちが多かった気がします。タランティーノカウリスマキジャームッシュウォン・カーウァイなど。映画にとって音楽は必要条件ではないどころか、ほとんど無関係(もともと映画は音を持ってません)なのですが、忘れがたく結びついてしまう映画と音楽というものがあって、きっとそれは自分のジャグリングと音楽との関係にも持ち込んでいるのだろうなあ。などと、まあ、余計なことです。





話はもう終わってしまったので、この記事を書く直前に見つけた面白い記事をご紹介。

アートと地域の共生についてのノート

ネットで話題になった「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」などから始まる現在の「アート」が「地域」と関係することに抱える問題について、ことさらその対立を強化するような立場の誇示ではなく、池田さんご自身も現場で参加された台湾の立法院占拠デモや、大ヒット作『アナと雪の女王』のオラフについて、私も大好きな國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』など、硬軟取り合わせて触れながら、同調でも敵対でもない共生の道筋を、別の仕方で考察されています。
とりわけ面白かったのは、最初は全身の力でようやく押し出せるような氷の塊を九時間かけて押し続けることで、やがて丸いボール状になった氷をサッカーのように両足で蹴飛ばして軽快に歩いて、最後は溶けきってしまうまでを映したフランシス・アリスのヴィデオ作品について書かれた第四回目の連載です。
この作品について池田さんは、たとえば第三世界の無益な労働に対するアレゴリーとして捉えられ、特定の現実世界と強い結びつきを持つと「ひとまずは」言えるだろうと言います。しかし、加えて、氷が物理的因果でそのサイズを縮めるとき、パフォーマーの身体との関係性が変化し、そこに「遊び」が生まれるとも指摘します。おそらくこの時使われる「遊び」という言葉には、楽しむことを意味すると同時に、関係に「余裕」をもつという意味も含むでしょう。氷をひたすらに押し続けるような行為への内在、加えて関係性が変化する何らかの能動的な因果に回収されない要因(氷であれば気温・時間・氷が滑る地面などでした)が、決定的かに見えた「現実」をつかの間組み替えてしまうこと、それこそがアートの働きかける力であると、先述した『暇と退屈の倫理学』やジャック・ランシエール『解放された観客』を引きながら説得的に語られます。
同調的な癒着でもなく、敵対的な対立でもなく、新たな「フィクション」の創出が共生への可能性を垣間見せること。こう言ってしまうと容易く聞こえてしまうのですが、やはりそれは孤独な営みの予感がします。フランシス・アリスの行為のような一見しての無益さ(と、そこから引き起こされるであろう無理解)を指して孤独と言うのではなく、現実から半身はみ出すことの寄る辺なさがあり、逆説的ではあっても、その寄る辺なさを感じることこそに、創出の手触りの確かさがあるだろうと思います。その孤独を知ってこそ、共生は可能になるのではないでしょうか。


ともあれ、次回で最終回の連載、そこで触れられるだろう、池田さんの創作の実際について、楽しみに待ちたいと思います。