20190701 BABYMETAL AWAKENS -THE SUN ALSO RISES- ベビメタ再始動について

昨年の重すぎるYUIMETALの脱退について、また藤岡幹大さんの逝去について、ついに何も触れないままここまでやってきました。

 

確かに熱量それ自体が落ちたといえばそれは否定しがたく、とはいえ幕張・SSAと2公演"ダークサイド"のベビメタも観ていました。しかし外野が憶測するにはあまりにセンシティヴなすべてについて、最大限に斟酌しつつも、煮え切らない感想しか抱けないものでした。だからといっておさらばできるほど切り替えも早くないし、虚心に肯定できるわけでもなく...そうこうしているうちに、半年以上の時間が過ぎ、横浜アリーナでのライヴになりました。圧倒的な期待感とともにはじめてのベビメタを観に行った2015年とは違って、気軽な散歩程度の気持ちで会場へ向かったのですが...

 

これもまた遠回りせず、結論から言いましょう。おかえりなさい!これからもよろしく!です。私はまたBABYMETALをかなり熱心に見ていくことになるでしょう。それはともかく。

 

きっと多くの人が感じたことだろうと架空の同士を想定しますが、2曲目「メギツネ」冒頭でSU-METALが日本語で、それもかなり心情を素朴に吐露するように「会いたかったよー!今日は最高の一日しようね!」とフロアへ語りかけた瞬間、お互いに抱えていたわだかまりが水に流されるようでした。
この喋りが、予め決められていたことなのか、それとも突発的に口をついて出てきたことなのか知る由もありませんが、厳格なコンセプトに基づいてグループとショーを構成する『BABYMETAL』としては、異例なことですし、なによりそのコンセプチュアルな"厳格さ"が齟齬をきたしているように見えた昨年の展開が、打ち消し合うように、チャラになってしまう...あまりにも簡単に懐柔されすぎなのかもしれないけれど、あのタイミングでステージ上からあの言葉を投げかけられて心が頑なな人は、もうベビメタと袂を分かたざるを得ないでしょう。それはそれで悪いことではない。

 

 また何より、SU-METALの無防備な笑顔も印象に残ります。今までもパフォーマンス中に笑わないではなかったけれど、なにかと頬がゆるむようにしている姿は、ときに憑依系などと言われもした姿と全く逆に、憑き物が落ちたとでも言いたいほどです。この余裕ともつかない、自信の現れともつかない、自然体と言っていいのかもわからない、ステージでのあり方は、私自身は確実に見たことのない姿でした。「SU-METAL」が限りなく「中元すず香」に近い状態でパフォーマンスしていた、と言ってみるくらいしか、その不思議な感触を伝えられません。かつてのようにギラギラと持て余す力を開放するのではなく、さりとて達人めいた脱力があるともいえず、この魅力はどこからやってきているのだろうと掴もうとしても掴みきれない。

 

私にとってBABYMETALは快楽というよりは謎の対象–––我知らず没入してしまう深い集中への誘い–––です。この謎に手招きされるようにして、さらに数々のアイドルに出会っては、何かを納得したつもりになってきたタイミングでまた入口に引き戻されてしまった。

 

そして鞘師里保さん、藤平華乃さんら「サポートダンサー」たち。特に鞘師さんの話題は、横浜アリーナのライヴと昨日のグラストンベリーでの全世界中継を発端に、ハロプロ界隈やその他ドルヲタたちの衆目を集めることになった。私自身、娘。についてなにひとつ知らないので、当日もさっぱり気づかないのでしたが、様々な情報が集まってくるうちに練り上げられている強い物語性と、その磁力に驚いています。「アイドルと物語」という、いまだ古びない受容の形式は、意識せずとも忍び込んで消費のモチベーションに作用するでしょう。書きぶりの通り、自分はこの物語性に少し警戒しています。が、鞘師さんやさくら学院の現生徒会長がステージに上る、ということの面白さにも抗えないで、むしろ楽しんでいる。何なのだろうかこれは。

 

 そもそもBABYMETALとは、「何だこれは!」という驚きと違和感をもって世に出てきたのでした。メタルというマーケットの広さ、クールジャパン(死語ですね)的な文脈から成功が分析され、メンバーの歌唱力やダンスのスキルの高さ、楽曲のクオリティに基づく技術論が連なり、そのインパクトを解き明かそうとした有名無名の人々の言葉はすでに山と積み上がっている。それらに目を通して、何かがわかった気になる。が、こうしてBABYMETALが「再出発」したかに見える今、私は積み上げられた分析と論理の山の上で、改めてもう一度驚き直すしかありません。「何だこれは!」と。

 

 ...これは横アリ初日の翌日に途中まで書いていた文章なのですが、昨晩のグラストンベリーの映像を見ていて、久しぶりにBABYMETALでしか感じられない、もはや"ゾーン"とでも言ったほうがいいような深い集中を感じたのでした。あれは、ベビメタにしかない時間なのです。どうしてそうまで見てしまうのか、本当にわからない...今回は「わからない」、ということを2000字もかけて繰り返してるだけなのですけど...

 

 

BABYMETALは10月の新譜を控えて、その前にUK・USと実に長いツアーが始まります。きっと何か賑やかなニュースを運んでくれることでしょう。楽しみだな〜!

20190627 上半期好きだったものたち

今日は、タイトル通り、上半期に好きだったものを選ぶ回です。
まあ、常から好きなものの話しかしていないのだが、それは酒飲みが何かと口実作るようなもので。
 

とりあえず音楽から。

 

 

 

  

アイドル曲からはキリがないんで、思いついたものだけ。・・・・・・・・・『Points』とカイ『ムーンライト・Tokyo』が二強という感じ。ドッツさんのアルバムはすでに触れていたので、ここはカイちゃん。元THERE THERE THERESのメンバーがTRASH-UP!!に移籍してソロ活動開始。デビューマキシシングルは趣味性を全開にしつつ、新旧のバランス感が絶妙としかいいようがない曲ばかり収められたパッケージで、すばらしい1枚になっています。またライヴは圧倒的なセンスで、毎回絶対に一度は笑わされてしまう...こんなすごいアイドルがいることを、世の中の人は知らなさすぎるわけで、いやはやです。カイちゃんにあっては作為と無作為の境界は常に曖昧、そもそもどうでもいいやとなります。

 

ちなみに、たこやきレインボー『軟体的なボヤージュ』にCY8ER『デッドボーイ、デッドガール』、クマリデパート『ココデパ!』などもよく聴きました。ブクガは相変わらずめっちゃ好きなのですが、自分にしては繰り返し聴かなかったなと。とはいえ他に比べればリピートしたのだから、ある意味殿堂入りみたいなものです。

 

 

てなことを書いてましたらRAYから初MV『バタフライエフェクト』が。いいっすねえ。私はシューゲイザーが苦手で、ほとんど聴いてこなかったんですけど、こうしてアイドルを介して聴けるようになってしまう。

  

その他はやはりヒップホップが多めでした。ゆるふわギャング『CIRCUS CIRCUS』を一番聴いたかな。Norah JonesとPanda Bearは自分でも意外なほど聴いていました。
しかし基本的にロックは全然探してもいないという感じに...Suchmos『THE ANYMAL』はめちゃ良かったのですが。Vampire Weekend『Father of the Bride』もいい印象ながら、今はリピートに至らず。作品の出来不出来(そもそもそんなものは私に判断できない)と関係なく、何かがツボにはまったものをリピートしてしまう聴き方なので、いつ聴きたくなるかわかりません。最近でもBon Iver『22, A Million』がリリースの1年後くらいにどハマリするということもあったり。Hot Chipは久しぶりにライヴ動画を見たら、やはりタイト。来日公演行こうかなあ...

 

 

 映画はなんといっても『嵐電』と『ワイルドツアー』。

イーストウッドはもちろんすごいけれど、この2本の瑞々しさと冒険心みたいなものが今の私にヒットしているということでしょう。とくに『嵐電』は、ショックのせいか、以降映画を観なくてもいいやと思わされてしまい、それはそれで困った話。

 

 

本や漫画はぜんぜん読めていないので、特に選べるものもなく...いや、三浦哲哉さん『食べたくなる本』ですね。良い映画の本であればその映画を見たくなる、良い旅の本であればそこに行きたくなる、しかしこれは、そんな良い食の本、すなわち「食べたくなる本」についての本であります。読みやすいエッセイとして読めるだけでなく、料理研究家の作家性や社会的な事象にまつわる批評意識にも刺激を受け、さながら知的好奇心の方まで舌なめずりを誘うといった形で、なんども再読したくなる本でした。
個人的には「サンドイッチ考」が特におもしろかったです。サンドイッチとは、肉や野菜をパンで上下から挟むことで、食材が口中にとどまる時間が伸び、その結果、肉の「味わい」を再発見させる、という指摘には、構成とそれによる関係性・認識の再編という、批評的な制作のあり方を、ごくシンプルに摘出された感触でした。

 

食べたくなる本

食べたくなる本

 

 

 

ライヴパフォーマンスは、驚かされたものについては常々書き散らしてるので、ここでは割愛。下半期は地の利を生かして、もう少し落語会に通いたいところ。

 

 

という具合でしょうかね。なんと言っても上半期は引っ越しが一大事で、これでもものを見たり聞いたりは控えめでした。

 

 

急に仕事の話になりますが、東京は大道芸やジャグリングが好きなお客さんが沢山いらしてて、私のパフォーマンスをご覧頂いた感想などこっそり拝見してると、ありがたいお言葉が多くあります。転地してみてどうなるのか、分からないことばかりで、これからもしばらくはそんな調子ですが、たいへん励まされております。

 

梅雨時期でパフォーマンスのキャンセルもありそうですが、引き続きよろしくお願い致しま〜す!

20190618 2度目のNILKLY、または振りコピのヲタク

ここ最近、仕事やら何やらが立て込んでいたこともあって、いわゆるアイドル現場から多少足が遠のいて、アイドル文化に距離ができていくのかと思った矢先。世の中にはNILKLYみたいなグループが出てきてしまうのだから困ったものです。いや、ぜんぜん困ってない。超楽しい。結局、自分にはまだまだこのシーンと表現が"必要"なのだなと再確認しました。

 

"必要"といっても、自分にとってなにが足りなくて、なにを補おうとするのかは判明ではなく、自然に体がそちらへ向かっていってしまう。これは単に流されやすいということかもしれないけど、それはともかく。

 

 

2回目のNILKLYは、1回目よりかなり印象の輪郭がはっきりしてきました。周りの感想を聞いても、今日はひときわ良かった、というものが多かったので、実際にメンバーのパフォーマンスが優れていたのはあったにせよ、むしろ自分自身の方で眼や耳が慣れてきたりして、スムーズに情報を選り分けることができてきた、という状態だと思っています。三者三様のステージングはそのままに、しかし三人をつなぐ基底部分のテンションやグルーヴ、つまり「NILKLYの空気」が観客と共有できている感じ...といいましょうか。グループとしてのまとまりをうまくキャッチできた気がしています。

 

それにしても小林さん。今回は意識せずではなく、かなり意識的にフォローしてみることにしていました。私が小林さんにフックされるのに、どういう原因があるのか、たいへん気になっていて、しかもそれは必ずしも私の情動的な部分"ではない"ところで起きているような予感があったのです。

 

特にアイドルを対象にするとき、決まった誰かに惹かれる場合、どこか自分自身の見えざる欲望の写し絵となっているのは、別に専門的な裏付けを要せずともうなずけることと思います。とはいえ外から見ると、具体的な人間関係のない誰かに入れあげてしまう精神構造など、かなり特殊なものに見えてしまうのかもしれませんが、むしろ話は逆で、およそ無関係な誰かであるからこそ、自分の好き勝手なイメージを投影したり、ふとしたきっかけで自分自身が気づかない欲望のトリガーになっていたりする。こうして書くとおどろおどろしいものに思えてしまうかもしれないが、アイドル文化には、それを形式化する様々な独自の文化...ライヴでのMIXと言われるコールに熱量を預けたり、SNS上でアイドルに向けて、またはヲタク同士でじゃれあってみたり(あまりにもパターンが多く、頻繁に見られる「アクリルキー」や「チェキ」を酒や食べ物に突っ込む、などという意味不明かつ、かなり品のない事象についてうまく説明できないうえ、本当に訳のわからない人がたくさんいすぎる)、無定形的な情念を落とし込む、固有のマナーのようなものがたくさんあります。逆にいえば、私みたいに原理的なものにこだわってるのは、かなり「めんどくさいヲタク」なのです。まあ私は私で、私なりの「ヲタ芸」をカマしていく他ないのですが...まあ、そんなことはどうでもいい。小林さんの話をします。

 

小林さんのパフォーマンスを見ていて誰しもが気づかざるを得ないのは、その視線の真っ直ぐさと強度です。これは前回も書いてみた「非モニタリング」的な視線、観客のコンディションや自分自身の陶酔感に向けられることのない、「単なる視線」とでもいうべきものです。意味はないが、どこかに送られる視線。そして意味がない(=その視線を見るものが意味を読み取れない)からこそ、我々を惹きつける。この無意味さは、とてつもなくドライです。意味に湿る隙がないから、「鬼気迫る視線」などというものですらない。そうした紋切り型のイメージに解釈を落とし込むのは、むしろ小林さんの視線の強度そのものに我々が耐えられず、とりあえずの意味を与えて落ち着きたいからかもしれません。しかし、単にその視線にロックされる、ただそれだけのことでしかない事実に身をおいてみます。あえて深入りしないこと。

 

こうした準備(?)を行ったうえで、私が今回試していたのは、意識的な同期です。要するに「振りコピ」というやつ。しかし、振りコピといっても、先日の記事で触れていた頭部の動きに始まる運動に限定したものです。*1小林さんが頭をバッと動かすとき、私も密かに(周りの邪魔にならない程度に)その動きをなぞってみる。小林さんの身体性がもたらしている動きだけをトレースしてみる。髪を払うように頭を振り上げる、振り下ろす。腰の回転から連動して、また逆に頭の振りからはずみをつけて重心を大きく動かして移動して...すると、なにが起きるか。そう...楽しいのです。うん、楽しい。

 

私はダンスについて完全な門外漢ですが、小林さんのダンスは、いわば大文字の「ダンス」的な技術論で追いかけても仕方のないものだと思います。テクニックやリズムの正確さは、いわばプロフェッショナルな領域で行われているものと、いくらかズレのあるものでしょう。そもそも、「ダンス」を知りたいのなら、わざわざ小林さんの動きをトレースしてみる必要はなく、ダンス教室にでも通ったほうが絶対早い。私が見たい/身体でなぞってみたいのは、さらに広義のダンス、共有可能なマナーではなく、ごくパーソナルな固有の「癖」。私にとって、小林さんのパフォーマンスには、その動きをトレースしたいと思うような、真似てみたいような誘惑があります。そこに意味はない。ライヴ空間でリアルタイムに身体のテンションを調整し、楽曲とその振付というフレームの中で最も強く、快楽的に力を出そうとすること...私が現時点で感じている小林さんの魅力と関心は、こんなところではないでしょうか。

 

 

...また一足飛びに飛躍を許してもらうならば、小林さんは今の私にとって、その動きをなぞろうとする限りにおいて、憧れの対象なのかもしれません。めっちゃカッコいいし、ワクワクさせてくれる。それはアイドルであり...人によってはカート・コバーンでありオードリー・ヘップバーンでありヤング・サグでありリオネル・メッシであり高倉健でありビヨンセであるような、私とその存在の隔たりの故にこそ姿を重ね合わせてしまう、スターです。

 

 

 実は視線の話にしても、スターの話にしても、かねてよりもうちょっと掘り下げたいテーマでして。これは別に勉強することでしょう。ともかく、そんな個人的な関心をもバチバチに刺激してくれる人が現れた!という感じです。小林潤。今月に入って何回書いてるんだ、この名前を。でも最高!です。あくまでも今は小林さんにご執心なだけで、NILKLY自体も、またズバズバ好みを突いてくる楽曲といい、アレだ、また早くNILKLY見たい。

 

 

あ、あと固い話ばかりで逃げを打つのもあれなんで申し添えておきますが、ステージを降りたときの小林さんの魅力たるや、そちらもすばらしいです...ちょくちょくインスタライブなどやっていくようなので、見るといいと思うな...

 

 

よ〜し、俺も頑張るぞ〜!! 

*1:映画監督の三宅唱さんによる映画の見方についてのアイディアの借用でもある。

20190613 NILKLY初見からの雑感

うーーーーん、なんて書き出そうか迷ってしまう。

 

つい数日前に書いていた「NILKLY」を見てきました。が、なんと言うべきかまとまらない感じでして...かといって黙っていたいのでもない。まあまあ、思いつきで進みます。

 

 

まず、映像で見ていたときのように、ベルハー/ゼアゼアとここまで印象の近似がないものかと、改めて言われなければ驚くこともないほど自然に「NILKLY」を見ていました。なので、実際見たら羽があることにも、特段に感慨があるわけでもなく、なんかついてんなあと思ったほどです。しかし無くせばいいとも、無くてもいいとも思っていません。逆に言うと、自分の中で何かしらベルハー/ゼアゼアを継ぐグループ、という前提がどこかしらにあり、それが実際はあまりに違っているので、ちょっとチューニングが合っておらず、うまく言い難い感覚になっているのかもしれません。一旦、そういうことにします。

 

ステージは、三者三様のあり方の違いが目に留まります。平澤さんは、ハードに踊りながらも隙を狙ってフロアを見渡しては観客と視線を合わせていましたし、伊吹さんは細かな表情や仕草に気を配りつつダンスをコントロールしている印象で、小林さんはそうしたフロア/自己へのモニタリングをすっ飛ばした没入感の高いパフォーマンス。

そしてダンス。YUKOさんに顕著だったポーズやフォーメーションの静的な視覚性ではなく、明確にダンスの動的な時間が主題化している...いわば非常に"ダンス"然とした振付は、振りコピ的な同期を外しにかかります。銃をコッキングし、撃ち撃たれる動きが特徴的な「Odyssey」のシーンにしても、同期に誘われるより早く、彼女たちは舞台に倒れ込みます。何を撃ち、何に撃たれるのか考える間もない。鋭く、また誘惑的なアクションだけがステージを滑空していくかのようです。

 

これは完全に趣味っつうか"泣きどころ"のようなものだと理解していただいた上で、今日はやはり小林さんからほとんど目を離せませんでした。均等に見るポイントを配分しようと心がけていたのに、気づけば小林さんを追ってしまう...それはやはり、私が"非モニタリング型"とでも言うべきタイプのパフォーマーに弱いからで...私の中では完全にSU-METAL – 矢川葵 – 小林潤という系譜ができあがってしまいました。具体的な対象に送られるわけではないが、内的な情念や、未分のエネルギーが乗せられているような、それ故に貫くような強度を持ち、かつコミュニケーションや意味へと供されざる孤独の冷ややかさもあり、まあ私はそんな視線と出くわすためにアイドルを見ているようなところすらあります。

 

一方、頭部を遠慮なくガッと動かす小林さんのダンスの癖には、我々が視線を送る先の的をズラされる効果もあり、意図せずして小林さんを追尾してしまうようなことも起きているかもしれない。感情的に振り乱すのでなく、頭部の動きを起点に身体の微調整を行っているような、自分自身のパフォーマンスにムチを入れるかのような厳しさにも見えてしまう。小林さんにしても、個人的な系譜(もう「推しメンたち」とか言ったほうが早い)に属する方々についても、どこか背筋を正されるような、その厳しさにおいては、いっそ倫理的とでも言いたいパフォーマンスを行っている、と私には思えてなりません。
 

余談ながら、ここには「憑依的」という形容を避けたい思いもありまして、どうしたって一心不乱で狂気的なものはウケやすいですから、そのほうが話が通りやすいのでしょうが、メタ的にフロアや自分自身をモニタリングする自意識から遠のきつつ、完全に彼岸へは行ききらない、微妙な意識の表れ、もしくは自己との戦いがあるんじゃないのかと、ひとまず言っておきたいんです。これは今のところ、かなり半端にしか言えないことではありますが、ステージやパフォーマンスというものに、何物にも代えがたいピュアさがあるとすれば、それはこうした戦いの場でもあるからだ、とだけは断言します。

 

 

しかし、楽曲の幅の広さにも関わらず、ライヴを通してずっと感じていたのはひたすらに落ち着いてしまう居心地の良さで、これもまた不思議でした。最後の曲が流れたとき、頭からもう一回やってほしいなー、と感じたくらい。

 

 

いやーー、どうなるのかな、これから。 わかるのは、今後最も見たいアイドルグループが決まってしまったということだけです。

20190610 今年もまたどくんごに

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大阪でどくんごを観てきました。

予約満席売り止め!という大入の盛況は嬉しい限り。いまだ梅雨入りしない関西で天気も持ち、ほどよい気温だったのも、観劇環境としては抜群でございました。

 

舞踏家の西瓜さんと、どくんごに縁浅からぬ京都の劇団「ベビー・ピー」に参加している本多さんもいて、部分的な仙台濃度が高まってもいたり。

 

あと、何度もここで登場しているscarlet222さんともご一緒しました。外山恒一さんの本と、ここで何回かどくんごの名前を出していたのがリンクして、興味を持っていただいた次第。そもそも今回のタイトルは『誓いはスカーレットθ』ですから、実質運命です。(昼間はアルコールを取りながら、ひたすら推しの話で楽しんだ)

 

毎年のことながら、その年初めてのどくんごは、妙な緊張感と構えで、素直に受け取れない部分が増えてしまうのですが、1個目の番組の叙情性からのコミカルな番組への切り替え、その他前半の展開のリズム感には、ああこれは好きなどくんごだなあと、個人的に珍しい感慨もありました。

とはいえ、結局どうなんだろうなー、と首を傾げてしまうのは避けられず。いやいや、普通のお客さんと比して余りに距離が近すぎる故のイヤな見方なのは自覚しつつも、ガッツリ1回目で掴んで欲しい!という期待を捨てられずに来ている...うーん、まあ「私が見たいどくんご」が、気づかずしてかなり固まってしまっており、どくんごが見せたい核心を捉え損なってるの可能性は、充分にあり得ます。

 

こんな事を言うと、行く気が殺がれるものですかね。そんなのはあまり気にせず、むしろ各々の眼でこそ確かめてほしい事には変わりません。あいつは何を言っとるんだ、ここを見ろ!という、私が気づき損なってる沢山の魅力は、また別の眼に頼るしかない。同時に、自分でもまた観に行く。おそらくは月末の横浜あたり、きっとまたテントに足を運ぶことでしょう。

20190607 魔法のような映画、『嵐電』

www.randen-movie.com

 

シネフィルと言えるほどではないものの、それなりに長い時間を映画に費やしてきましたが、「映画」を観る快楽にここまで浸らせてくれた作品はいつ以来なのか、まったく思い出せません。


『ジョギング渡り鳥』『ゾンからのメッセージ』も見逃していて、鈴木卓爾監督について何も分からないといっていい状況ですが、『うさぎの楽隊』はもちろん『ゲゲゲの女房』の素晴らしさを知っていたからこそ、この『嵐電』も観に行ったので...いやはや、ひさしぶりに分析する気も起きなければ、そもそもこの映画で試されていることに追いつくのも精一杯というありさま。体感にして9割近いショットに入り込む「嵐電」の車体、不意をつくような編集、大胆極まりないフレーミング、生々しく魅力の脈打つすべてのキャスト...こうした褒め言葉をいくら積み重ねようとも、映画の一端をも明らかにしないでしょう。しかし、まずは『嵐電』がどれだけ素晴らしいのか、うわ言のように繰り返すくらいしかない。もし現代にも「魔法」があるとしたら、この映画は紛れもなくその名に値する作品でしょう。

 

これはね、少なくとも私程度の者には、一度観た程度で何かが分かるような水準の映画ではないです。しかし、黙り込んでしまいたくなるわけでもなく、観た人と、あの井浦新さんによるベランダと踏切を結びつける"切り返し"について、大西礼芳さんの涙の唐突さとキスシーンの美しさについて、上映会中ひっきりなしに到着し続ける嵐電について、京都という波間を切って進む嵐電が、確かに観客の耳に波音を届けた瞬間の陶酔感について、べらべらと語り明かしたい気持ちが抑えられない映画です。

 

そう、ひとつだけ書き残しておきたいとしたら、『嵐電』にあっては「音」が印象的に演出されていたように感じたことです。先に書いた、そこにないはずの波の音、駅の回転バーが回る重い金属の音、衛星の妻の突く杖の音、8mmカメラの音、改札パンチをカチカチ合わせる音。電車という、映画作家ならば誰でもその視覚性に淫してしまいたくなる対象は、あくまでも認識の限界というフレームを境界づける役割のようでもあり、その圏内で響いてくる「音」に耳を澄ませるときこそ、狐と狸の誘いよろしく我々はここではないどこかに飛び去ってしまうような、奇妙な感覚に陥るのです。

 

 

映画において未知を体験したいならば、それは『嵐電』、ここにあると断言して擱筆

20190529 NILKLY始動、あるいは小林潤の衝撃

無事、韓国遠征からきこkNILKLYが見たいです。


つい報告の途中で心の声が漏れてしまいました。

 

ここ、今年は特に活動報告というよりは雑記の場なので、趣味に淫することをお許し願いたいのですが、ひっさびさにアイドルに心撃ち抜かれてしまった。

 

 

 

今年2月にTHERE THERE THERESを解散後、各メンバーの移籍やソロ活動スタートを経て、ついに平澤芽衣の新グループ「NILKLY」が5月25日に始動。腕にはあの黒い羽が。これだけでいくらか涙腺が緩んでしまう。

 

しかし、楽曲はすべて新曲、ダンスも過去のゼアゼア/ベルハーとの近似すら感じさせない、キビキビとしたそれ。羽を纏いつつも、既にして"亡霊"はどこへやら、しかもそれに哀愁を感じさせることもない。真っ直ぐフロアへ向かうパフォーマンス。楽曲もロックの大枠は保ちつつも、ダンサブルな振り付けとの相性なのか、相当に攻め込んだ印象です。

 

平澤さんの堂々たる風格は何も変わらず、かといって自信を振りかざす素振りもなくキュートネスを振りまき、初アイドルという伊吹さんも、見劣りすることなく演じきっていて今後にも大きく期待なのだが、それにしても小林潤さんには完璧にやられてしまった...映像を先に観て、早く実際のステージを観に行きたいと思ったのはいつ以来でしょうか。2年前、いろいろな現場へ行ってこの目で確かめてみたい、と思ったあの感覚を、また引き出してくれました。小林さん、マジのマジに超超超素晴らしいです。えー、ほんとうに早く観たい!

 

私はディレクターの田中さんの作る音楽とステージが大好きで仕方ないのですが、田中さんの音楽の趣味と、その他にもユーモアと心からのピュアさに、自分が10代の頃恩恵を受けた多くの芸術作品に触れたあのときの感覚に通じる部分を、これでもかと刺激されます。
加えて、どのグループも本当に魅力的なメンバーを集め、まぎれもない「アイドル」として、そのポエジーとも呼ぶべき部分を、結晶させずむしろ外の世界に四散させていく気前の良さのようなものにも惚れていまして、要するに、わかるわかる、という共感的なコミュニティを飛び出して、ある表現がアイドルを介して異種混合のキメラ的になっていくことが、たまらなく楽しいのです。

 

が、小林さんもまたそうした媒介を務めつつ、どこか田中さんのポエジーの結晶化をうながすような、今までとは一味違った側面を覗いたような気分にさせてくれます。俯きつつ激しく身を揺するさまに漂う、曰く言い難いシャープな美しさ...そこに、かつてロックというものが託し託された、若さの持つ孤独と潔癖さみたいなものを読み取ってしまう...
なーんて、在宅の思い入れがすぎる主観でしかないのですが、こうした思い込みを加速させてくれるようなパフォーマーが今再び現れた、それも私にとって面白くて仕方ない形で現れたということに、興奮せざるを得ない。そう、得ない。

 

踏み込んでことを明らかにしすぎるのは無粋なのでとどめておきますが、小林さんがNILKLYにいることの興奮と期待は、決して私一人のものではないはずです。

 

いやー、おもしろいな。新曲はもちろん、過去の曲を演じ直すのも、メンバーが増えていくのも、楽しみでしかない。