20190904 「テン年代アイドル論」、またはオタクであることについて

※ scaletさんにまさかの課金(月日さんとのチェキ代)ができるようになったそうです。これが都市計画の裏切りというやつか...
※ タイトル誤記を修正

 

5月の上旬、夜の渋谷のバスターミナルで、その後「推し」になるアイドルと初接触のチェキ(複数枚)を見せながら構想を語ってくれた文章がついに。

 

 

note.mu

 

しかしまあ、ひとりのアイドルがひとりのオタクの「推し」へと生成変化していく時間を共にした文章だと思うと、実に貴重でひとしお興味深い「オタ芸」といえるでしょう...

 

などという冗談はともかく、このscarletさんによる現代アイドル史では、東浩紀-宇野常寛-濱野智史-黒瀬陽平に代表される思想/批評の潮流が、AKB48-BiS-PIPと重なり合い、・・・・・・・・・によってその重なり合いがほとんど一つのものになるさまが描き出されます。見通しはきわめてクリア。我々はアイドルという正体不明の文化について、一望するツールを手に入れたかのようです。

 

もちろん、一望といっても、それは一つの視点からによるものです。つまるところ、その道具を使って何を見、フォーカスするかは道具の使用者に委ねられている。同じ望遠鏡を使っても、それぞれはまったく違ったものを見るでしょう。すなわち、これを読んでから・・・・・・・・・のオタクになることも、あずまんフォロワーになることも、はたまたアイドルプロデューサーになることも、すべてが可能です。では、私はどうするのか。私はアイドルと同じくらい、オタクとは何か、について考えてみたい。とりわけ濱野智史を通じて。

 

 

 ところで、文中に触れられているアイドルで私が全く知らないのはPIPのみです。プロデューサーの濱野が批評家で、・・・・・・・・・運営陣がこのグループのヲタクで、所属アイドルだった萌花さんがscarletさんの今の推し...ともかく、かなり限られた情報しかもっておらず、論考を通して最も勉強になったことのひとつです。

 

実のところ濱野の『前田敦子はキリストを超えた』も未読で、私の知るものは、ほぼ完全に「テン年代〜」に依存します。そのうえで。

 

 

テン年代〜」で冒頭から確かめられるように、アイドルにとってのゼロ年代AKB48の時代であり、今までの「アイドル」の前提を「会いに行ける」というコンセプトでもって覆し、現代的な「アイドル」のありようを一変させてしまいました。狭義のアイドル史的には、ファンとの直接的なコミニュケーションを含んだ文化のあり方の定着、また様々なグループの乱立によるマイナールールの改変を凄まじいサイクルで回転させるようになりました。そのことで前者は運営の収益化を容易にし、後者は表現の幅をかつてとは別の仕方で拡張していった、といえます。

広義に見れば、ファンサイドの受容の仕方も変え、かつてとは違った層に、ひとつの文化としてリーチし得るようになったのです。それが先述の濱野に代表される、批評/思想家などの知識人へのアピールなども、現象の一部に含まれます。彼らにとってアイドルは単なる消費物を超えて、彼らの批評的/思想的関心と響き合うものとして、知的な関心をも満たす対象なのです。それが具体的にはどういうことなのかは、直接論考に当たっていただくとして、先に進みます。問題は、濱野が自らの思想的関心の延長線上で、実践として「PIP(Platonics Idol Platform)」なるアイドルグループを発足させ、運営してみせたことです。

 

事実として運営の結果を先取るならば、PIPは失敗に終わりました。野心的なコンセプトにも関わらず、彼自身の思想を原因として内破したとscarletさんは指摘します。そもそも、濱野の関心は、「アーキテクチャ」としてのアイドルでした。ある構造・システムを介して、社会に影響を及ぼすこと。身近な例で言えば、大きなデモを組織し、実際の革命を可能にしたSNSなどが、そうした「アーキテクチャ」です。

 

しかしながら、アイドルは「アーキテクチャ」を含みながらも、「アーキテクチャ」そのものではありません。いくらAKBのファンがCDを大量に買い、それが別な公共性へと差し出されるとしても、そこには他ならない人間(!)としてのアイドルが存在し、音楽や映画に代表されるあまたの「アイドルによるコンテンツ」の質が不可欠なのでした。濱野の革命は、この革命可能性としての「アーキテクチャ」を愛しつつも、革命するところの人間たちのマネジメントを、いささか顧みなさすぎたことに失敗の一つの原因があったとされるのです。

 

ここでscarletさんは黒瀬陽平の「運営の思想」と「制作の思想」という概念を導入し、濱野的な「アーキテクチャ」への過度な期待が、他者という偶然性を奪い、そして更に、そんな偶然性を招き入れる思想そのものもまた、「運営の思想」に回収されかねない危険性について触れます。そこで・・・・・・・・・が、「制作の思想」を可能にする、またあるいは希望を感じさせるシステムとして、「都市の幽霊」としてアイドル史に現れるさまを書いていくのですが...

 

私は、ここで主に語られる、・・・・・・・・・の思想的な水準にも増して、"現場"での・ちゃんの有り様が、いや、具体的には"現場"のヲタクについて滑り気味に進む筆の荒ぶりに、まず目を引かれます。長くなるが、引用しましょう。

 

いくら曲中で「おーれーの○○ちゃん」と叫んだところで、自分の推しが自分だけの推しではないことを、オタクは嫌というほど知っている。そんなことは百も承知で、それゆえにこそオタクは「おーれーの○○ちゃん」と叫び続ける。しかしこれは別にオタクの自己卑下なんかではない。むしろこれはアイドルとオタクの関係の美点だろう。結婚という「ふつう」のゴールが想定されている異性愛規範のもとでの関係性とは異なって、アイドルとオタクの関係にゴールはない。こうした「遠さ」にオタクは時として苦しみながらも、どこかでそれをたまらなく愛してもいるはずだ。やろうとすればどこまでも、いつまででも、際限なく「つながる」ことができるこの時代に、一分もあるかないかの限られた時間で必死に思いを伝えようとするオタクの姿は、どこか美しいとさえおもえてしまう(いや、さすがにこれは美化しすぎたか…)。 

 

ここではいわば、オタクとは尋常な性愛関係によって収支を釣り合わせるような計算を度外視し、目の前にいながらも遠い「アイドル」へ向けてめいっぱいエネルギーを浪費する、無償の愛とでも言うべき戯れに興じる存在として祝福されています。


だが、同時にこうも書かれています。

 

ところで、アイドルとの出会いはいつも偶然だ。どんなに強い気持ちで推すことになるにせよ、最初のきっかけは偶然的なものでしかない。それに、数多いるアイドルたちのなかで、「この」アイドルでなければならない必然性など、初めのうちはない。それでもオタクは、事後的に、過去を再構成しながら、推しとの出会いを必然に、運命にしてしまう。 

 

オタクにあって偶然は、偶然が偶然のままであることを望まず、それがたとえ"お約束"としての遊びであるとは言え、しばしばそれを運命として、こう叫ばずにはいられません。

 

「やっと見つけたお姫様!」

 

 

 

話を少しばかり巻き戻します。

 

私は先に、AKB48の存在が、多くのアイドルを生み出し、マイナールールの改変を盛んにしたと書きました。このマイナールールというのは、先行する「アイドル」のイメージを裏切りつつ、その裏切り自体が「アイドル」の新規性と面白さを担保するような形になる、基礎的なコンセプトのあり方についてです。主にそれは、"アイドルらしからぬ"音楽ジャンルとの接合によってマナー化していったのですが、この流れにとって最も大きな一手を放ったグループが、文中にも触れられているBiSです。このグループが書き換えたルールは、実に数多くありますが、中心的メンバープー・ルイが言ったこの言葉にこそ、現在のアイドルをめぐる基層があります。すなわち「(BiSは)アイドルだと言い張るグループ」だ、と。

 

要するに、現在のアイドルは、–––批判者がよく揶揄するような–––プロデューサーの人形ですらなく、「わたし(たち)はアイドルだ」と言ってのけさえすれば、それが「アイドル」なのだという自律性を得たことに、かつての「アイドル」と最も大きな違いがあるのです。こうしたシーンの前提があるからこそ、濱野はPIPにおいて「アイドルを作るアイドル」というコンセプトに掛け金を置いたのでしょう。

 

 

一方その頃「オタク」はどうなっていたでしょう。アイドルが自律性を得たとき、オタクはどのようにして変化したのか...いや、オタクはかつてと変わらず「オタク」のままです。アイドルはアイドルであると宣言することによって自律的にアイドル足り得ても、要するにオタクなしに「アイドル」であることはあっても、オタクはアイドルなしに「オタク」であることはできません。「オタク」はどこまでも後発的で他律的な存在です。「やっと見つけた」などと寝言のようなことを言ってはみるが、姫は誰かに見つけられたから姫なのではありません。ここには非対称性がある。

 

再び濱野に登場してもらいましょう。彼はアイドルの「アーキテクチャ」をこそ愛したのでした。しかし、そこに「人間」を発見したから、アイドルというプラットフォームの制作に身を乗り出しました。さて「人間」とはなんでしょうか。これは、彼のプロデューサーではなく「オタク」としての側面を明らかにするでしょう。

 

アーキテクチャにしか興味のなかった濱野が、(再び東の言葉をかりれば)「現場的なものを嫌っていた」濱野が、なぜここまでアイドルという人間にのめり込んだのか。濱野は一貫して、「レスがあるから」だと答える。

 

「レス」とはステージのアイドルがフロアのオタクに向けて視線を送ることです。眼差しが今ここで確かに交わること、その確かさに「オタク」濱野は骨抜きにされたと言えるでしょう...だけども、何かがおかしい。視線の交錯が、どうしてそんなにも人を捉えるのか。どうして視線がぶつかり合うことが「人間」を「アイドル」たらしめるのか。ところで上の引用文は、・・・・・・・・・に関連する指摘として取り上げられたエピソードです。では、・・・・・・・・・にとって視線とは、レスとは何か。引用します。

 

・ちゃんの、「眼差しを交えることがつねに不可能であり続けるような眼差しによって見つめられていると感じる」とき、あくまでそれは「・ちゃんが自分を見つめているかもしれない」という可能性に留まっており、それゆえに「ほんとうは自分のことを見つめてはいないかもしれない」という別の可能性が、つまりは幽霊が、絶えず取り憑く。 

 

確認しておきますが、・・・・・・・・・のメンバーであるところの・ちゃんたちは、目にバイザーのようなものを(設定上はそれ自体が「目」)装着し、彼女たちの視線がどこに向いているのか、にわかに判断が付きづらいようになっています。だからこそ、オタクにとって・ちゃんの視線の行く末は常に「可能性に留まっ」たまま、オタクの願望と不安を幽霊化するのです。ここまでを確認して、濱野の件に戻りましょう。

 

濱野は、アイドルの「レス」によって"現場"へと取りさらわれていったのでした。今ここで、アイドルとオタクの視線が交わる場所、それが"現場"です。濱野にとってアイドルがアイドルであることを確認できる場所...私に向けられた彼女の視線こそが、何にも増して必要だったのです。ですが、私はそもそもこう思うのです、「その「レス」、本当にあなたへ送られてるの?」と。


先ほどBiSによって確かめたように、現在のアイドルは、自律的にアイドル足りうる術を手に入れたのでした。他方で、オタクは相変わらず他律的に、アイドルがあってこそのオタクとしての身分を変えることはできません。だが、そんな寄る辺なきオタクがオタクであることを保証される瞬間があります。それが「レス」です。つまり、一人のアイドルから、無数のオタクをかいくぐり、他ならないこの私=オタクが、アイドルであるあなたに眼差され、またアイドルも私=オタクの眼差しを受けること。ごく端的に言おう。「レス」とはアイドルがオタクをオタクとして身分保証するメッセージであると。そしてそれ故にこうも言えます。「レス」はその「レス」の宛先を確実なものにできないからこそ、メッセージの効果を発揮するのだと。常に当たり続けるスロットに、誰が金を賭けるのでしょうか。無論、濱野もそれを承知の上で、ギャンブルに興じるようにして「レス」の存在を愛したのかもしれません。だが。

 

もう一度整理します。


オタクは無数に存在します。対して、あるアイドルは一人です。違うアイドルは存在するが、固有のアイドルは常に一人です。ゆえに、あるアイドルの視線も一つです。だからその視線を受け取るオタクは常に一人のはずですが、視線の宛先は常に不安定です。私に送られたかもしれないし、隣のオタクに送られたかもしれない。物理的に確定できないのですから、それは原理的に「可能性に留ま」り続けるのです。しかし、オタクはその可能性自体に強く取り攫われるのです。だから時にオタクは逸脱的に"つながろう"としたり、バランスを失ったものはストーキングに手を染めたりもする。曖昧な可能性自体を燃料にして、確実性の方へ方へと向かっていく。それは極端な例かもしれませんが、「レス」を特権視することで強化される、リスクであるはずです。リスクを愛することは罪ではないが、少なくとも自分が何に惹かれているのか、知っておくべきではないか。

 

一般のアイドルによる「レス」が、そもそも不確実な可能性に基づいた行為であるなら、・・・・・・・・・のバイザーとは何なのでしょうか。視線は隠されようが露わであろうが、オタクにとっては原理的には同じことです。が、何かが質的に違いをもたらしているとするならば、おそらくこう言えるでしょう、・・・・・・・・・における・ちゃんのバイザーとは「「あらゆるレスは可能性のうちに留まる」ということの可視化」であると。オタクの欲望はバイザーという装置に折り返され、自覚的になることを促します。これによりオタクは偶然の戯れを引き受けて、寝言のような「運命」をいささかの気恥ずかしさとともに、だが大真面目に叫ぶことが可能になるのです。

 

幽霊とは実体を持たないもののことです。しかし見えてしまう。見えてしまうが、存在が疑われる。むしろ幽霊は、存在の確実性が常に不確実でもあることを教えてくれるのでしょう。

 

 

 

結論に代えて、個人的なアイドル観についての話をします。
私にとって「アイドル」とは何なのか。容易に言葉にできない、意味不明で、それゆえに惹きつけられる存在。さしあたってはそう言えます。しかしそもそもどうして言葉にしたいのか、彼女ら/彼らについて、どうしてそんなにも話したいのか。これが何に似てるかといえば「恋」に他なりません。また「恋」とは何か。「恋」とは投影です。自分自身の欲望というフィルムを、他者をスクリーンとして上映する映画のようなものです。こうした映画に熱中することは、一歩引いてみればひどく間抜けだが、当事者にとってはいたく真剣な時間を過ごしているのです。

 

私はその「恋」の根拠である自身の欲望について、「アイドル」という支持体を通じて多くのことを気付かされる。そして気付かされた私は、もはやかつての私ではない。「恋」は人を変える、というのは修辞ではなく、端的な事実です。オタクはどうして事後的にアイドルとの出会いを物語に、運命に変えるのか、それは何よりもアイドルを介して、自分自身と出会い直しているからです。

 

いくらアイドルが自律的になったとはいえ、アイドルとオタクは切り離せません。そして、私は今のところそう宣言するつもりも予定もありませんので、当然アイドルではないが、この文化に惹かれ、また推しという存在がいる限りにおいて、オタクです。また私の推しはステージから「レス」を送るタイプのアイドルではありませんが、しかし私をはっきりと固有のオタクと認識していて、つまり広い意味で「レス」を与えられた紛うかたなきオタクであります。同時に、無数のオタクのうちの一人として、その「レス」に一喜一憂するのです。

 

ただ私が彼女を推しとして安心していられるのは、そんな一喜一憂にコミットすることなく、どこまでもサラリと放っておいてくれるところでしょう。こういうと語弊がありますが、オタクに対してほどほどに無関心でいてくれること、それがかえって心地よい。アイドルとオタクの非対称性を、あらかじめはっきりと見せてくれることによって、どうでもよくなる。しかしながら、そんなあり方に惹かれる私自身の関心の深さに何度も出くわすのが、面白いものです。

 

私は、私の「恋」の熱情を、私の推しの冷却作用とでも呼ぶべき距離感によってマネジメントしつつ、だがやはりだらしなく一喜一憂したりする振れ幅を体験することを、自分自身の次なる「可能性」として、楽しんでいます。
でも、壮大に勘違いしたりする素朴なオタクや、はたまた冷めつつも熱っぽくガチ恋口上を入れてみせるオタク上級者にいささかのあこがれがないとは言えません。もしかしたら私は、アイドル以上に、オタクたちに惹かれ、時としてオタクたちをアイドルのようなものとして見てるのかもしれません。