20190816 3776と『歳時記』とワンマンについて、急ぎ足で

いつも通りのジーンズとチェックのシャツを羽織った石田さんが現れ、上手に要塞然と設えられた機材たちの前で手を動かし始めると、WWWのスピーカーから図太いキックが体に触れる。井出さんの高くかわいらしいあの歌声にそぐわない、ブーン、という低音。これだけで今日のワンマンがある種の"勝利"に終わるだろうと確信させるのでした。

  

3776のライヴは、多くのアイドルがそうであるような、エモーショナルさも確かにありながら、そのような現場主義的な熱狂にのみ回収されるわけではありません。かたや、ワンマンならではの凝った舞台装置などもほぼありません。では、何があるのか。その前に、心から驚かされる新作『歳時記』について。

 

 

今回の『盆と正月が一緒に来るよ!〜歳時記・完結編』では、3776のニューアルバムである『歳時記』の発売と合わせて開催されたライヴです。『歳時記』は2016年から現在に至るまで1~4巻まで販売されており、その名の通り季節折々の行事にちなんだ楽曲が収録されています。それぞれの内容については、ワンマンに先駆けて公開されたOTOTOYインタビュー記事から引用します。

 

「歳時記シリーズ」とは?
富士山ご当地アイドル3776と共に四季折々の日本を味わうシリーズ。
歳時記 第1巻には、師走(12月)の章「メリークリスマス&ハッピーニューイヤー」、睦月(1月)の章「正月はええもんだ」、葉月(8月)の章「盆唄音頭」が収録。 
歳時記 第2巻には、皐月(5月)の章「八十八夜」、水無月(6月)の章「ほたる来い」が収録。
歳時記 第3巻には、如月(2月)の章「2037年のバレンタイン」、卯月(4月)の章「さくらさくら」が収録。
歳時記 第4巻には、文月(7月)の章「リピーター」、霜月(11月)の章「秋祭り」が収録。
のこりは弥生(3月)、長月(9月)、神無月(10月)の章だが……?

https://ototoy.jp/feature/2019080501

 

 しかしながら、アルバムに収録されているのは以下。

 

ちなみに『歳時記』に記載された曲名はこちら……。

 


3776ニューアルバム『歳時記』
2019年8月28日発売
¥2,500 (税抜¥2,315)

1.睦月一拍子へ調
2.如月二拍子嬰へ調
3.弥生三拍子ト調
4.卯月四拍子嬰ト調
5.皐月五拍子イ調
6.水無月六拍子嬰イ調
7.文月七拍子ロ調
8.葉月八拍子ハ調
9.長月九拍子嬰ハ調
10.神無月十拍子二調
11.霜月十一拍子嬰二調
12.師走十二拍子ホ調

 

 

もとの原型をとどめていないタイトルは、一見してどれがどの曲なのか、にわかには判別できません。これは、記事中の石田さんの発言にもあるように、このアルバムは「DJミックスみたいな作品」であることに起因しています。すべての曲は間断なくシームレスに連続するよう、再構成されています。加えて、井出さんのカウントする「1月1日,1月2日,1月3日...」という日付と「子・牛・寅・卯...」という干支の名が並行してバックトラックに流れ続けます。これによって、より強く全体の連続性が保証される仕組みです。
またこの作品では、日付・干支・楽曲が三層のレイヤーを成しつつ73分12秒ノンストップで構成されているのですが、楽曲内で井出さんのナレーションとコーラスが同時に進行するような曲もあり、ひと筋縄ではいきません。「楽曲」という単位は揺さぶりにかけられ、レイヤーはより細かく、パートごとに増減を繰り返します。そもそも日付も干支も常にプレーンなトラックではなく、エフェクトを掛けられ、その他の楽器と等価な音素として楽曲と相互浸透的に関係を結びます。しかしまた、それらの要素を統合する井出さんの「声」という唯一性に帰着する。それは3776が他ならない「アイドル」であるからこその帰結です。が、その「アイドル」は絶対的な不可侵の、盲目的な信頼ではなく、ある種ストレステストのような、「アイドル」がどこまで「アイドル」であることに耐えられるか試すような実験にも思えます。
そして、ワンマンライヴは、この『歳時記』をライヴ当日である8月15日を起点にスタートする、再びの"再現ライヴ"でなのでした。ライヴハウスの音響で再現されるこの『歳時記』は、ほとんどカオティックな音の渦に飲み込まれつつ、視線は井出さんのストイックなダンスに焦点化させる、かと思えば時折背後の石田さんの妙にキュートなダンスにも脇目を振ってしまう、やはり視聴覚ともにかき乱される体験です。

 

だが、これだけなら、ある種強度の問題と言えなくもない。また、いくら楽曲の質的にハイクオリティであり実験的であっても、「アイドルとオルタナティヴな音楽ジャンルとの融合」は、それ自体もはや、安定的な一定の効果が予想できる、一般的な方法論でしかありません。というか、そもそも3776は、その活動と表現の奇矯さを知る人達が思うほどには、異質なもの同士の出会いを演出する類のアイドルではないかもしれません。3776はあくまでも3776自身に、あるいはアイドルに内在するのみではないでしょうか。また3776がより先進的であるとするならば、それは「アイドル」というジャンルを構成するもの、限りなく雑多な諸要素について自覚的であるからに他ならないはずです。

 

 

 3776はその名の通り「富士山」と関係の深い、いや「富士山」と等価なものとして「3776」の活動をしています。(『歳時記』のジャケットを見よ)3776さんのあらゆる表現に富士山が存在しないことはなく、常に富士山への言及が欠かせないのです。それはライヴでも変わりません。

WWWのステージ正面の壁面には時折「富士山を構成するもの」と上下にテロップのついた、井出さん筆になる富士の絵が投射されました。富士山の構成物は「太陽」や「雲」、また「樹海の蛙」や「茶畑」そして「富士山」そのものであると、宣言されます。つまりそれは自然科学的な「富士山」の定義ではなく、我々にとって「富士山」を「富士山」たらしめている「富士山のイメージ」のようなものといえばいいかもしれません。「富士山」は唯一であり、また同時に、これらの諸要素によって複数でもある(LINKモードという、富士山の"表裏"に注目したプロジェクトも思い出す)のです。

これは言うまでもなく、「アイドルを構成するもの」として置き換えてみてもわかることです。「アイドル」とはなにか? 歌手か、ダンサーか、女か、男か、かわいい者か、美しい者か、映画俳優か、画家か、小説家か、バラエティのバカ担当か、モデルか、地域の人気者か、簡単なことです。その全てが「アイドルを構成するもの」なのです。アイドルは唯一であり、同時に複数である。井出ちよのというアイドルの唯一な声はサンプラーによって多重化され、歪み、複数化されながら、「アイドル」としての揺るぎなさを失うことはありません。私たちは、3776の表現を介して、この揺るぎなさの現れにこそ揺すられるのかもしれません。

 

 

 

急ぎ足に結論めいたものを付け加えるのに忸怩たる思いもあるのですが、ようやく富士登頂に一歩踏み出せた、という思いです。とにかくねえ、石田さんも井出さんもとんでもないのです。また相変わらずの気負いのなさも、ほとんど驚異です。

 

言わずもがなの付言をするならば、3776さんの仕事は「アイドル」というジャンルの内側の出来事にとどまらないインパクトです。と同時に、人に「アイドル」とは何なのか、真摯に振り返らせる強さがあるでしょう。この幸福を取り逃すことのないよう、皆で、3776に驚こう。

 

ototoy.jp

20190725 八戸遠征のこと

ようやく梅雨明けも間近。今年は本当にうっとうしい雨続きでした。


色々と停滞気味になっていましたが、先日は八戸へ。
「第1回 マチニワ大道芸フェスティバル」です。

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マチニワはご覧の通りのフリースペース。通りすがりに誰でも立ち寄れて、お茶を飲んだり勉強したりと、市民の憩いの場になっていました。半屋外というのも心地よく。
大道芸フェスティバルは、こちらのオープン一周年記念イベントなのでした。


八戸へは前日入り。そこで、共演するもんたさん、おっとちゃん、メランコリー鈴木さんとサバ料理専門店「サバの駅」へと。サバのヅケ丼、サバの竜田揚げ、サバの串焼き、そしてサバの棒寿司の天ぷら(!)とまさにサバづくしで、青魚の好きな私には最高のお店。

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食事の後は繁華街を散歩。先程のマチニワの裏手に大小様々な路地が。かねてから友人に面白い土地と聞いていたとおり。酔客は多くとも、街が清潔に保たれているのが印象的です。

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滞在記は「はっち」。通常はアーティストの滞在制作に宿泊スペースを貸し出している模様。場所もマチニワのすぐ向かいで好立地。実はこの建物、元職員と設計した人物とが友人という縁もあり、何事も興味深く見ておりました。知り合いが設計した建築、というものが初めてですから、よくわかりもしないが、あちこち眺めては、なるほど...とつぶやいてみたり。現代的な装いのなかに、民俗的な展示と、普段使いのレストラン、趣味の良いお土産屋さんなど、地域に根づいた施設なのが伺えます。いい場所でした。

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そんで本番。おっとちゃんとメランコリーさんはスティルトとスタチュー。私ともんたさんが定点のパフォーマンス。写真はオープニングステージの一コマ。まだまだ八戸ではこうしたパフォーマンスなど見慣れないはずですが、確かな好奇心で暖かく迎えていただけました。とくにメランコリーさんのスタチューなんかは、老若男女問わず不思議そうに眺めて、ひとりの子供などはもう食わんばかりにべったりと張り付いて、それがまた面白い風景になっていました。

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@hacchi_staffから借用

 

パフォーマンスの合間には、裏手にある、はちのへブックセンターへ。
確かな品揃いもうれしく、ついつい本を購入。本棚の合間にちょっとしたスペースがあり、フランス語講座を開催していました。おもしろい。

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本格的なWSも。子供から大人まで、90分みっちり。誰も手を休めず、夢中で(特に大人が)技を覚えてくれました。1時間半あるとここまで上達するのだなー、とこちらも勉強になりました。最後は緊張しながらも、階段の踊り場をステージにして発表会。

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こうして報告してしまうと通り一遍な感じもしますが、スタッフさんの「ぜひ八戸に大道芸を!」という熱意たるや、並々ならぬもので、ひとりの方の情熱をきっかけに、ものごとは動いていくのだなと改めて。また八戸の街、はっちにマチニワという、ローカルな条件の組み合わせが、今後の展開を期待させます。

 

こうしたスペースや企画の立案があっても、なかなか大道芸というジャンルにお鉢が回ってくることは、必ずしも多くありません。まして、馴染みのない土地では、どのようなお客さまが足を運ぶか、全く見えないのですから、会議にかけられたとしても、最終的に二の足を踏んでしまうことも想像に難くありません。

 

逆に言えば、未知の可能性が多くある我々の世界は、誰かの手によって、あらぬほうへとバトンが回されていく楽しみがまだまだあるわけで。八戸という街は、そんな躍るような期待を抱かせてくれる場所なのでした。東北に足をお運びの際は、ぜひ八戸へも。

 

20190701 BABYMETAL AWAKENS -THE SUN ALSO RISES- ベビメタ再始動について

昨年の重すぎるYUIMETALの脱退について、また藤岡幹大さんの逝去について、ついに何も触れないままここまでやってきました。

 

確かに熱量それ自体が落ちたといえばそれは否定しがたく、とはいえ幕張・SSAと2公演"ダークサイド"のベビメタも観ていました。しかし外野が憶測するにはあまりにセンシティヴなすべてについて、最大限に斟酌しつつも、煮え切らない感想しか抱けないものでした。だからといっておさらばできるほど切り替えも早くないし、虚心に肯定できるわけでもなく...そうこうしているうちに、半年以上の時間が過ぎ、横浜アリーナでのライヴになりました。圧倒的な期待感とともにはじめてのベビメタを観に行った2015年とは違って、気軽な散歩程度の気持ちで会場へ向かったのですが...

 

これもまた遠回りせず、結論から言いましょう。おかえりなさい!これからもよろしく!です。私はまたBABYMETALをかなり熱心に見ていくことになるでしょう。それはともかく。

 

きっと多くの人が感じたことだろうと架空の同士を想定しますが、2曲目「メギツネ」冒頭でSU-METALが日本語で、それもかなり心情を素朴に吐露するように「会いたかったよー!今日は最高の一日しようね!」とフロアへ語りかけた瞬間、お互いに抱えていたわだかまりが水に流されるようでした。
この喋りが、予め決められていたことなのか、それとも突発的に口をついて出てきたことなのか知る由もありませんが、厳格なコンセプトに基づいてグループとショーを構成する『BABYMETAL』としては、異例なことですし、なによりそのコンセプチュアルな"厳格さ"が齟齬をきたしているように見えた昨年の展開が、打ち消し合うように、チャラになってしまう...あまりにも簡単に懐柔されすぎなのかもしれないけれど、あのタイミングでステージ上からあの言葉を投げかけられて心が頑なな人は、もうベビメタと袂を分かたざるを得ないでしょう。それはそれで悪いことではない。

 

 また何より、SU-METALの無防備な笑顔も印象に残ります。今までもパフォーマンス中に笑わないではなかったけれど、なにかと頬がゆるむようにしている姿は、ときに憑依系などと言われもした姿と全く逆に、憑き物が落ちたとでも言いたいほどです。この余裕ともつかない、自信の現れともつかない、自然体と言っていいのかもわからない、ステージでのあり方は、私自身は確実に見たことのない姿でした。「SU-METAL」が限りなく「中元すず香」に近い状態でパフォーマンスしていた、と言ってみるくらいしか、その不思議な感触を伝えられません。かつてのようにギラギラと持て余す力を開放するのではなく、さりとて達人めいた脱力があるともいえず、この魅力はどこからやってきているのだろうと掴もうとしても掴みきれない。

 

私にとってBABYMETALは快楽というよりは謎の対象–––我知らず没入してしまう深い集中への誘い–––です。この謎に手招きされるようにして、さらに数々のアイドルに出会っては、何かを納得したつもりになってきたタイミングでまた入口に引き戻されてしまった。

 

そして鞘師里保さん、藤平華乃さんら「サポートダンサー」たち。特に鞘師さんの話題は、横浜アリーナのライヴと昨日のグラストンベリーでの全世界中継を発端に、ハロプロ界隈やその他ドルヲタたちの衆目を集めることになった。私自身、娘。についてなにひとつ知らないので、当日もさっぱり気づかないのでしたが、様々な情報が集まってくるうちに練り上げられている強い物語性と、その磁力に驚いています。「アイドルと物語」という、いまだ古びない受容の形式は、意識せずとも忍び込んで消費のモチベーションに作用するでしょう。書きぶりの通り、自分はこの物語性に少し警戒しています。が、鞘師さんやさくら学院の現生徒会長がステージに上る、ということの面白さにも抗えないで、むしろ楽しんでいる。何なのだろうかこれは。

 

 そもそもBABYMETALとは、「何だこれは!」という驚きと違和感をもって世に出てきたのでした。メタルというマーケットの広さ、クールジャパン(死語ですね)的な文脈から成功が分析され、メンバーの歌唱力やダンスのスキルの高さ、楽曲のクオリティに基づく技術論が連なり、そのインパクトを解き明かそうとした有名無名の人々の言葉はすでに山と積み上がっている。それらに目を通して、何かがわかった気になる。が、こうしてBABYMETALが「再出発」したかに見える今、私は積み上げられた分析と論理の山の上で、改めてもう一度驚き直すしかありません。「何だこれは!」と。

 

 ...これは横アリ初日の翌日に途中まで書いていた文章なのですが、昨晩のグラストンベリーの映像を見ていて、久しぶりにBABYMETALでしか感じられない、もはや"ゾーン"とでも言ったほうがいいような深い集中を感じたのでした。あれは、ベビメタにしかない時間なのです。どうしてそうまで見てしまうのか、本当にわからない...今回は「わからない」、ということを2000字もかけて繰り返してるだけなのですけど...

 

 

BABYMETALは10月の新譜を控えて、その前にUK・USと実に長いツアーが始まります。きっと何か賑やかなニュースを運んでくれることでしょう。楽しみだな〜!

20190627 上半期好きだったものたち

今日は、タイトル通り、上半期に好きだったものを選ぶ回です。
まあ、常から好きなものの話しかしていないのだが、それは酒飲みが何かと口実作るようなもので。
 

とりあえず音楽から。

 

 

 

  

アイドル曲からはキリがないんで、思いついたものだけ。・・・・・・・・・『Points』とカイ『ムーンライト・Tokyo』が二強という感じ。ドッツさんのアルバムはすでに触れていたので、ここはカイちゃん。元THERE THERE THERESのメンバーがTRASH-UP!!に移籍してソロ活動開始。デビューマキシシングルは趣味性を全開にしつつ、新旧のバランス感が絶妙としかいいようがない曲ばかり収められたパッケージで、すばらしい1枚になっています。またライヴは圧倒的なセンスで、毎回絶対に一度は笑わされてしまう...こんなすごいアイドルがいることを、世の中の人は知らなさすぎるわけで、いやはやです。カイちゃんにあっては作為と無作為の境界は常に曖昧、そもそもどうでもいいやとなります。

 

ちなみに、たこやきレインボー『軟体的なボヤージュ』にCY8ER『デッドボーイ、デッドガール』、クマリデパート『ココデパ!』などもよく聴きました。ブクガは相変わらずめっちゃ好きなのですが、自分にしては繰り返し聴かなかったなと。とはいえ他に比べればリピートしたのだから、ある意味殿堂入りみたいなものです。

 

 

てなことを書いてましたらRAYから初MV『バタフライエフェクト』が。いいっすねえ。私はシューゲイザーが苦手で、ほとんど聴いてこなかったんですけど、こうしてアイドルを介して聴けるようになってしまう。

  

その他はやはりヒップホップが多めでした。ゆるふわギャング『CIRCUS CIRCUS』を一番聴いたかな。Norah JonesとPanda Bearは自分でも意外なほど聴いていました。
しかし基本的にロックは全然探してもいないという感じに...Suchmos『THE ANYMAL』はめちゃ良かったのですが。Vampire Weekend『Father of the Bride』もいい印象ながら、今はリピートに至らず。作品の出来不出来(そもそもそんなものは私に判断できない)と関係なく、何かがツボにはまったものをリピートしてしまう聴き方なので、いつ聴きたくなるかわかりません。最近でもBon Iver『22, A Million』がリリースの1年後くらいにどハマリするということもあったり。Hot Chipは久しぶりにライヴ動画を見たら、やはりタイト。来日公演行こうかなあ...

 

 

 映画はなんといっても『嵐電』と『ワイルドツアー』。

イーストウッドはもちろんすごいけれど、この2本の瑞々しさと冒険心みたいなものが今の私にヒットしているということでしょう。とくに『嵐電』は、ショックのせいか、以降映画を観なくてもいいやと思わされてしまい、それはそれで困った話。

 

 

本や漫画はぜんぜん読めていないので、特に選べるものもなく...いや、三浦哲哉さん『食べたくなる本』ですね。良い映画の本であればその映画を見たくなる、良い旅の本であればそこに行きたくなる、しかしこれは、そんな良い食の本、すなわち「食べたくなる本」についての本であります。読みやすいエッセイとして読めるだけでなく、料理研究家の作家性や社会的な事象にまつわる批評意識にも刺激を受け、さながら知的好奇心の方まで舌なめずりを誘うといった形で、なんども再読したくなる本でした。
個人的には「サンドイッチ考」が特におもしろかったです。サンドイッチとは、肉や野菜をパンで上下から挟むことで、食材が口中にとどまる時間が伸び、その結果、肉の「味わい」を再発見させる、という指摘には、構成とそれによる関係性・認識の再編という、批評的な制作のあり方を、ごくシンプルに摘出された感触でした。

 

食べたくなる本

食べたくなる本

 

 

 

ライヴパフォーマンスは、驚かされたものについては常々書き散らしてるので、ここでは割愛。下半期は地の利を生かして、もう少し落語会に通いたいところ。

 

 

という具合でしょうかね。なんと言っても上半期は引っ越しが一大事で、これでもものを見たり聞いたりは控えめでした。

 

 

急に仕事の話になりますが、東京は大道芸やジャグリングが好きなお客さんが沢山いらしてて、私のパフォーマンスをご覧頂いた感想などこっそり拝見してると、ありがたいお言葉が多くあります。転地してみてどうなるのか、分からないことばかりで、これからもしばらくはそんな調子ですが、たいへん励まされております。

 

梅雨時期でパフォーマンスのキャンセルもありそうですが、引き続きよろしくお願い致しま〜す!

20190618 2度目のNILKLY、または振りコピのヲタク

ここ最近、仕事やら何やらが立て込んでいたこともあって、いわゆるアイドル現場から多少足が遠のいて、アイドル文化に距離ができていくのかと思った矢先。世の中にはNILKLYみたいなグループが出てきてしまうのだから困ったものです。いや、ぜんぜん困ってない。超楽しい。結局、自分にはまだまだこのシーンと表現が"必要"なのだなと再確認しました。

 

"必要"といっても、自分にとってなにが足りなくて、なにを補おうとするのかは判明ではなく、自然に体がそちらへ向かっていってしまう。これは単に流されやすいということかもしれないけど、それはともかく。

 

 

2回目のNILKLYは、1回目よりかなり印象の輪郭がはっきりしてきました。周りの感想を聞いても、今日はひときわ良かった、というものが多かったので、実際にメンバーのパフォーマンスが優れていたのはあったにせよ、むしろ自分自身の方で眼や耳が慣れてきたりして、スムーズに情報を選り分けることができてきた、という状態だと思っています。三者三様のステージングはそのままに、しかし三人をつなぐ基底部分のテンションやグルーヴ、つまり「NILKLYの空気」が観客と共有できている感じ...といいましょうか。グループとしてのまとまりをうまくキャッチできた気がしています。

 

それにしても小林さん。今回は意識せずではなく、かなり意識的にフォローしてみることにしていました。私が小林さんにフックされるのに、どういう原因があるのか、たいへん気になっていて、しかもそれは必ずしも私の情動的な部分"ではない"ところで起きているような予感があったのです。

 

特にアイドルを対象にするとき、決まった誰かに惹かれる場合、どこか自分自身の見えざる欲望の写し絵となっているのは、別に専門的な裏付けを要せずともうなずけることと思います。とはいえ外から見ると、具体的な人間関係のない誰かに入れあげてしまう精神構造など、かなり特殊なものに見えてしまうのかもしれませんが、むしろ話は逆で、およそ無関係な誰かであるからこそ、自分の好き勝手なイメージを投影したり、ふとしたきっかけで自分自身が気づかない欲望のトリガーになっていたりする。こうして書くとおどろおどろしいものに思えてしまうかもしれないが、アイドル文化には、それを形式化する様々な独自の文化...ライヴでのMIXと言われるコールに熱量を預けたり、SNS上でアイドルに向けて、またはヲタク同士でじゃれあってみたり(あまりにもパターンが多く、頻繁に見られる「アクリルキー」や「チェキ」を酒や食べ物に突っ込む、などという意味不明かつ、かなり品のない事象についてうまく説明できないうえ、本当に訳のわからない人がたくさんいすぎる)、無定形的な情念を落とし込む、固有のマナーのようなものがたくさんあります。逆にいえば、私みたいに原理的なものにこだわってるのは、かなり「めんどくさいヲタク」なのです。まあ私は私で、私なりの「ヲタ芸」をカマしていく他ないのですが...まあ、そんなことはどうでもいい。小林さんの話をします。

 

小林さんのパフォーマンスを見ていて誰しもが気づかざるを得ないのは、その視線の真っ直ぐさと強度です。これは前回も書いてみた「非モニタリング」的な視線、観客のコンディションや自分自身の陶酔感に向けられることのない、「単なる視線」とでもいうべきものです。意味はないが、どこかに送られる視線。そして意味がない(=その視線を見るものが意味を読み取れない)からこそ、我々を惹きつける。この無意味さは、とてつもなくドライです。意味に湿る隙がないから、「鬼気迫る視線」などというものですらない。そうした紋切り型のイメージに解釈を落とし込むのは、むしろ小林さんの視線の強度そのものに我々が耐えられず、とりあえずの意味を与えて落ち着きたいからかもしれません。しかし、単にその視線にロックされる、ただそれだけのことでしかない事実に身をおいてみます。あえて深入りしないこと。

 

こうした準備(?)を行ったうえで、私が今回試していたのは、意識的な同期です。要するに「振りコピ」というやつ。しかし、振りコピといっても、先日の記事で触れていた頭部の動きに始まる運動に限定したものです。*1小林さんが頭をバッと動かすとき、私も密かに(周りの邪魔にならない程度に)その動きをなぞってみる。小林さんの身体性がもたらしている動きだけをトレースしてみる。髪を払うように頭を振り上げる、振り下ろす。腰の回転から連動して、また逆に頭の振りからはずみをつけて重心を大きく動かして移動して...すると、なにが起きるか。そう...楽しいのです。うん、楽しい。

 

私はダンスについて完全な門外漢ですが、小林さんのダンスは、いわば大文字の「ダンス」的な技術論で追いかけても仕方のないものだと思います。テクニックやリズムの正確さは、いわばプロフェッショナルな領域で行われているものと、いくらかズレのあるものでしょう。そもそも、「ダンス」を知りたいのなら、わざわざ小林さんの動きをトレースしてみる必要はなく、ダンス教室にでも通ったほうが絶対早い。私が見たい/身体でなぞってみたいのは、さらに広義のダンス、共有可能なマナーではなく、ごくパーソナルな固有の「癖」。私にとって、小林さんのパフォーマンスには、その動きをトレースしたいと思うような、真似てみたいような誘惑があります。そこに意味はない。ライヴ空間でリアルタイムに身体のテンションを調整し、楽曲とその振付というフレームの中で最も強く、快楽的に力を出そうとすること...私が現時点で感じている小林さんの魅力と関心は、こんなところではないでしょうか。

 

 

...また一足飛びに飛躍を許してもらうならば、小林さんは今の私にとって、その動きをなぞろうとする限りにおいて、憧れの対象なのかもしれません。めっちゃカッコいいし、ワクワクさせてくれる。それはアイドルであり...人によってはカート・コバーンでありオードリー・ヘップバーンでありヤング・サグでありリオネル・メッシであり高倉健でありビヨンセであるような、私とその存在の隔たりの故にこそ姿を重ね合わせてしまう、スターです。

 

 

 実は視線の話にしても、スターの話にしても、かねてよりもうちょっと掘り下げたいテーマでして。これは別に勉強することでしょう。ともかく、そんな個人的な関心をもバチバチに刺激してくれる人が現れた!という感じです。小林潤。今月に入って何回書いてるんだ、この名前を。でも最高!です。あくまでも今は小林さんにご執心なだけで、NILKLY自体も、またズバズバ好みを突いてくる楽曲といい、アレだ、また早くNILKLY見たい。

 

 

あ、あと固い話ばかりで逃げを打つのもあれなんで申し添えておきますが、ステージを降りたときの小林さんの魅力たるや、そちらもすばらしいです...ちょくちょくインスタライブなどやっていくようなので、見るといいと思うな...

 

 

よ〜し、俺も頑張るぞ〜!! 

*1:映画監督の三宅唱さんによる映画の見方についてのアイディアの借用でもある。

20190613 NILKLY初見からの雑感

うーーーーん、なんて書き出そうか迷ってしまう。

 

つい数日前に書いていた「NILKLY」を見てきました。が、なんと言うべきかまとまらない感じでして...かといって黙っていたいのでもない。まあまあ、思いつきで進みます。

 

 

まず、映像で見ていたときのように、ベルハー/ゼアゼアとここまで印象の近似がないものかと、改めて言われなければ驚くこともないほど自然に「NILKLY」を見ていました。なので、実際見たら羽があることにも、特段に感慨があるわけでもなく、なんかついてんなあと思ったほどです。しかし無くせばいいとも、無くてもいいとも思っていません。逆に言うと、自分の中で何かしらベルハー/ゼアゼアを継ぐグループ、という前提がどこかしらにあり、それが実際はあまりに違っているので、ちょっとチューニングが合っておらず、うまく言い難い感覚になっているのかもしれません。一旦、そういうことにします。

 

ステージは、三者三様のあり方の違いが目に留まります。平澤さんは、ハードに踊りながらも隙を狙ってフロアを見渡しては観客と視線を合わせていましたし、伊吹さんは細かな表情や仕草に気を配りつつダンスをコントロールしている印象で、小林さんはそうしたフロア/自己へのモニタリングをすっ飛ばした没入感の高いパフォーマンス。

そしてダンス。YUKOさんに顕著だったポーズやフォーメーションの静的な視覚性ではなく、明確にダンスの動的な時間が主題化している...いわば非常に"ダンス"然とした振付は、振りコピ的な同期を外しにかかります。銃をコッキングし、撃ち撃たれる動きが特徴的な「Odyssey」のシーンにしても、同期に誘われるより早く、彼女たちは舞台に倒れ込みます。何を撃ち、何に撃たれるのか考える間もない。鋭く、また誘惑的なアクションだけがステージを滑空していくかのようです。

 

これは完全に趣味っつうか"泣きどころ"のようなものだと理解していただいた上で、今日はやはり小林さんからほとんど目を離せませんでした。均等に見るポイントを配分しようと心がけていたのに、気づけば小林さんを追ってしまう...それはやはり、私が"非モニタリング型"とでも言うべきタイプのパフォーマーに弱いからで...私の中では完全にSU-METAL – 矢川葵 – 小林潤という系譜ができあがってしまいました。具体的な対象に送られるわけではないが、内的な情念や、未分のエネルギーが乗せられているような、それ故に貫くような強度を持ち、かつコミュニケーションや意味へと供されざる孤独の冷ややかさもあり、まあ私はそんな視線と出くわすためにアイドルを見ているようなところすらあります。

 

一方、頭部を遠慮なくガッと動かす小林さんのダンスの癖には、我々が視線を送る先の的をズラされる効果もあり、意図せずして小林さんを追尾してしまうようなことも起きているかもしれない。感情的に振り乱すのでなく、頭部の動きを起点に身体の微調整を行っているような、自分自身のパフォーマンスにムチを入れるかのような厳しさにも見えてしまう。小林さんにしても、個人的な系譜(もう「推しメンたち」とか言ったほうが早い)に属する方々についても、どこか背筋を正されるような、その厳しさにおいては、いっそ倫理的とでも言いたいパフォーマンスを行っている、と私には思えてなりません。
 

余談ながら、ここには「憑依的」という形容を避けたい思いもありまして、どうしたって一心不乱で狂気的なものはウケやすいですから、そのほうが話が通りやすいのでしょうが、メタ的にフロアや自分自身をモニタリングする自意識から遠のきつつ、完全に彼岸へは行ききらない、微妙な意識の表れ、もしくは自己との戦いがあるんじゃないのかと、ひとまず言っておきたいんです。これは今のところ、かなり半端にしか言えないことではありますが、ステージやパフォーマンスというものに、何物にも代えがたいピュアさがあるとすれば、それはこうした戦いの場でもあるからだ、とだけは断言します。

 

 

しかし、楽曲の幅の広さにも関わらず、ライヴを通してずっと感じていたのはひたすらに落ち着いてしまう居心地の良さで、これもまた不思議でした。最後の曲が流れたとき、頭からもう一回やってほしいなー、と感じたくらい。

 

 

いやーー、どうなるのかな、これから。 わかるのは、今後最も見たいアイドルグループが決まってしまったということだけです。

20190610 今年もまたどくんごに

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大阪でどくんごを観てきました。

予約満席売り止め!という大入の盛況は嬉しい限り。いまだ梅雨入りしない関西で天気も持ち、ほどよい気温だったのも、観劇環境としては抜群でございました。

 

舞踏家の西瓜さんと、どくんごに縁浅からぬ京都の劇団「ベビー・ピー」に参加している本多さんもいて、部分的な仙台濃度が高まってもいたり。

 

あと、何度もここで登場しているscarlet222さんともご一緒しました。外山恒一さんの本と、ここで何回かどくんごの名前を出していたのがリンクして、興味を持っていただいた次第。そもそも今回のタイトルは『誓いはスカーレットθ』ですから、実質運命です。(昼間はアルコールを取りながら、ひたすら推しの話で楽しんだ)

 

毎年のことながら、その年初めてのどくんごは、妙な緊張感と構えで、素直に受け取れない部分が増えてしまうのですが、1個目の番組の叙情性からのコミカルな番組への切り替え、その他前半の展開のリズム感には、ああこれは好きなどくんごだなあと、個人的に珍しい感慨もありました。

とはいえ、結局どうなんだろうなー、と首を傾げてしまうのは避けられず。いやいや、普通のお客さんと比して余りに距離が近すぎる故のイヤな見方なのは自覚しつつも、ガッツリ1回目で掴んで欲しい!という期待を捨てられずに来ている...うーん、まあ「私が見たいどくんご」が、気づかずしてかなり固まってしまっており、どくんごが見せたい核心を捉え損なってるの可能性は、充分にあり得ます。

 

こんな事を言うと、行く気が殺がれるものですかね。そんなのはあまり気にせず、むしろ各々の眼でこそ確かめてほしい事には変わりません。あいつは何を言っとるんだ、ここを見ろ!という、私が気づき損なってる沢山の魅力は、また別の眼に頼るしかない。同時に、自分でもまた観に行く。おそらくは月末の横浜あたり、きっとまたテントに足を運ぶことでしょう。