素描_08結

 冷たい風が吹いて、これはひと雨来るかなと、昨日もそうだったことを思い出しつつ構えていると空振り。隠れていればいいのに太陽まで出てきて空は晴々としている。かと思えば、薄い雲だというのにどこから流れてきたのか大粒の雨が10分くらい降った。
 雨が降れば仕事は止めないとならない。刻々と予報の変わる雨雲レーダーを更新しつつ、雲が逸れただの、いや一帯を覆うくらい大きい雲になったから避けようがないとか、とにかく振り回されて荷物を出したり片付けたりを繰り返してばかりいた。それでも雨が降れば気温は多少下がったりするわけで、尋常な夏の夕暮れの肌触りを感じたりもした。

 そうだったと書いたように、前日も雨が降った。実際に経験したことはないが、こういう突発的な大雨にはそう言うのが適当だという知識でもって、東南アジアのスコールみたいな雨だ、と言った。建物の軒下を借りてしばしその様子をうかがう。さっきから話しかけてくる小学生くらいの男の子も一緒に雨宿りするが、雨には頓着する様子はない。もう止んだよ?と、そりゃあ小雨にはなったが、あきらかに降り続いているのに言う。まだ降ってるよ。彼は仕事ではないから、小雨なら止んだも同然なのだろう。あとは天気の変化には構わずドラえもんの豆知識を、もうひとりのパフォーマーに話し続けている。しかしこんなにもひどい夏を、夏という季節として受け入れ、良きものとして何かを留めることはできるのだろうかと思ったりするが、それも彼とはすれ違うのだろう。

 首から汗が伝うのを感じる。時間には間に合うが、待ち合わせた場所を迂回してちょっと買い物をする。レジが詰まっている。焦っているわけではないけど、汗は出る。単に暑いのだ。初めて会う人たちと会うので、あまりバタバタしたくない。買い物を済ませると先にWさんが待ち合わせ場所にいて、ふたりで貸会議室に入る。集合時間に応じてひとりふたりと集まり、自分以外は全員面識があるので簡単に挨拶をして本題に入る。複数人の話を展開させ、まとめる役回り。得意とは言いがたいが気後れすることもない。
 だがそもそも話慣れているメンバーで、自然と話題は転がるし、一つの話題にそれぞれがそれぞれの角度を足して話してくれる。あまり不安はない。ただ、ちょっとした特異点を成すワードが出てきたら、そこを拾って反復させて笑いにしたりする。これはどれだけ相手に届くものか分からないが、自分が気のおけない座談で使うワザではある。本当に笑っているかどうかではなく、笑うというモードになれば、まずはいい。

 音ゲー、というワードが出てきた。これは友人とのLINEで、だ。意味のない、テンポだけで会話するような時間のことを指しているらしい。音ゲー、したことはないがニュアンスは分かる。気持ちのいいテンポで会話することのイメージ。
 ちょうど、つい最近、今めっちゃいいテンポの会話になりましたねと感心して言われたシーンがあったばかりだった。これは自分のワザなんで、とはさすがに言うべきではないし言わないくらいの恥は持っているけど、これはワザなのだ。

 また、話しをする機会があった。だが今度は主体的に話す必要があったので、やや難儀する。会話は複数人のリズムが絡まって、「会話のテンポ」を作るのだが、ひとり語りではそうはいかない。自分がリズムを作らないといけない。聞くのはいいが、話すとなると、そこにはあまりワザがない。
 自分が話すとなれば、雨降りのなかでじっと待つようなことはできない。話しをはじめないといけない。テンポを作るいくつかのパターンは思い浮かばないでもないが、演技的な自分を想像すると馬鹿らしくなって、手持ちの札を一気に切り捨てるような語り方になる。そうなると流れを読むことはできなくなる。そういう放棄的な大敗でいいとしばしば諦めてしまう。もっと自分を遊べればいいのだが。
 
 ずっと昔にテレビで見た印象深い検証があって、雨の中を歩いても走っても、結果的に濡れる量は変わらないという。だからといって人が雨の中ゆうゆうと傘もなく歩いていると様子を訝しんでしまうだろう。実際、そういう人がいたのだ。小学生の彼と、スコールのような雨が降る軒下で、そういうおじさんを見た。小学生の彼が見つけた。雨なのに歩いてるよ。と。人には行かねばならない時があるんだよと、隣りにいたパフォーマーが言う。当然、子供には分からない含意を込めたギャグとして、それを言う。子供は笑わない。すべっているのとも違う。大人はこういうワザを時折使う。
 でも、なんのためだろうか。きっと、からかっている、くすぐっている、まあ、そういうものだと思う。そうされると子供はからかい返してくるし、くすぐり返してくる。もちろんそれほど経験もなければ、まだ言葉をじゅうぶんに玩具としては扱えない彼だから、物理的に。意味なんか分からなくても、そのうちふたりはふたりのテンポを見つけられる。そういうときがある。
 彼らは雨上がりの広場でじゃれあうようにパフォーマンスを見せ、見ていた。ように、ではないか。じっさいにじゃれついていて、それを受け入れたりいなしたりしながら時間を過ごしていた。一対一でぜいたくねえと通りがかった人が言った。でもそのうち一対一ではなくなって、じょじょに人が集まってきた。

素描_08中

 Young Thugの「Punk」というアルバムを聴きはじめる。USのラッパーでは誰が好きか、という話の流れで開口一番にヤンサグの名前が出て、ほぉーと頷いてLil Uzi Vert とかJ Coleとか……と名前は並んだが、やっぱこのヤンサグの2021年ころに出たアルバムっすかね、「Punk」に感動して、と言われた。
 感動。使わない言葉だ。そのあとも、クラシックでは誰それの演奏には感動する。ホルストの「惑星」を聴くと感動する。感動、という言葉が続く。その人の言語感覚では「感動」がしっくりくるもので、こちらとしてもぜんぜん無理のないものに思えた。でも自分は使わないな、と思っていた。
 ところで今、「感動」をめぐる原稿を手直ししている。自分にはカギカッコに入れてようやく使える言葉だ。

 言葉をカギカッコに入れて使うことが多い。たとえば「推し」とか。
 カギカッコはその言葉との距離感だ。私はそれを書き/言うけれど、この書き/言う身体とは隔たりがあるものとして使う。こういう隔たりをいくつも、自分に纏わせている。身体には直接届かない言葉として、表面を滑っていく言葉として、傷を負うことなく使える安全カミソリとして、対象の産毛を剃り落としていくように、つるつるのコミュニケーションで間を持たせるため、カギカッコ付きの言葉はある。

 プライヴェートな領域だからぼかして書くけども、そのカギカッコなしの言葉を使う人のパートナーに向ける言葉が、じつにスウィートだった。べつにことさらに甘やかな言葉を投げかけるわけではないのに、その語調や、リズム感、間合いにいたわりや慈しみがあったように思えた。それは言葉というか、もはや身体の関わりそのもので、たとえばそれはヴェーベルンの弦楽曲のように、ごく短い音がふっと空気をかすめるような儚さにおいてダンスのようで、さらには最良のコンタクト・インプロヴィゼーションのようでもあった。ロマンチックにすぎる見立てだろうか。他者がやすやすと「愛」を名指すことはダサいと思っているのだが、そのような快さとしてふたりの他愛ないやり取りが耳に入った。

 またカギカッコがやってくる。ぎこちないものだ、と思う。

 ひとまず単純な記述においては裸になって舞台に歩み出るとしか描けない素朴な瞬間に、言いしれない震えを感じることがある。緑アキさんという、今年の12月を以て休業を宣言している若手の踊り子さんにそれを何度も感じた。
 ストリップは服を脱ぐことがジャンル表現の絶対の条件としてあるわけだが、その脱衣は単純な結果ではなく、踊り子さんそれぞれにおいて、またさらに演目ごとによって、その効果や現象の質を違えている。私たちはあまりにも低質な裸(のイメージ)を見慣れすぎてしまっていて、身体/裸体の可能性を忘れかけている。そうした可能性を目の当たりにさせるのがストリップである、と言える。
 緑さんが、すでに多くの衣服を取り去った状態からさらに椅子に腰掛けて、念入りに装身具まで取り去って、立ち上がり、最後の下着も取り払う。身体は下手のほうを向いたまま歩き、中央で正面を向く。両手を広げたかと思えば、花道へと足を踏み出し、そのまま盆と呼ばれる円形のステージへと進んでくる。
 人には、その以前と以後を分かちがたく隔ててしまう、決意や勇気や確信を宿らせる一歩を踏み出すことが、人生において確かにある。もちろんこれは比喩である。じっさいには何か──求婚でも退職でもいいけれど、自分を異なる状態へと連れ出す宣言であったりする。それを人生における重要な一歩ということは咎められまい。緑さんのステージには、思わずそうした一歩を連想してしまうような重みがある。慎重に言っておきたいのだが、それは裸になるということが覚悟を必要とするだとか、それだけのことではないし、また緑さんがそうした重みを表現しているということでもない。裸の、身体の可能性とは、思いがけずそうした重みの感触をこちらに生じさせてしまうような、想像的な重ね合わせが発生するということだ。描かれずして、そうした絵をふいに思い浮かべてしまうこと。
 このことを何と言えばいいか。まずは、感動するとしか言いようがないだろう。重ね合わせにおいて私が震えること、心が動くこと、それはカギカッコを取り去るべき、生のままの感動に他ならない。

 カギカッコを取り払ったのだから、あとはもう向き合うしかなくなる。横に滑らせれば血が出る研がれた剃刀として、私はそれを取り扱わなければいけない。感動する。私はその言葉を使わないなと思った。だがこうして使うべき局面はあり、扱いあぐねたとしてもそれはすでに手元にある。

 長々と話した。ラップのこと、仕事のこと、コミュニケーションをすること、それぞれの会話も心地よいキャッチボールとしてあるけれど、そうした往復はふいにボールの軌道を乱す風の到来を待っている。少なくとも私は。いや、待っていると言っても釣り糸を垂らすようにではなく、無意識の期待として、予感として、それをこそ待っていたのだと事後的に言うしかない仕方で待っている。
 彼のパートナーとの会話から、こちらの状況へと球は投げられる。あー、そうですねえと応え方をいくらか迷ったが、衒いのない言い方で返した。まあでもねえ、この人間性ですからねえ、なかなかねと自虐してみせたりもするが、なるべく屈託は少なく返すべきだなと思った。

 こうして書いている間にも「Punk」は、存外にメロウで抑制的なトーンの楽曲をスムースに連続させている。感動とまではいかないのだが、ヤンサグの、やや意外なアルバムとして受け止めている。彼が私にヤンサグの「Punk」を教えてくれたかわりに、私はキース・ジャレットハープシコードで弾いた「ゴルトベルク変奏曲」のアルバムを教えた。

素描_08頭

 帰路につく新幹線でぼーっとしていると、東京の友人たちの顔が幾人も思い浮かんだ。彼らと彼女らは、この数日に再会した仙台の誰とも繋がっていない。それがみょうに不思議だった。
 いや、何も不思議なことはないのだが、感覚としては不思議なのだ。背後に遠のく仙台と、近づいていく東京。繋がらない友人たちのことを考えていると、2つの土地の間で宙吊りになっている自分の存在が希薄になっていくように感じられる。耳ではBad Bitch 美学、とAwichが吐き捨てるようにラップしている。滞在中、聴いてなかった新譜を耳にする機会があった。この曲とkZmの「DOSHABURI」だけ繰り返し聴いていた。土砂降りのようなYen Won Dollarというフックがみょうに耳に残って中毒的になる。土砂降りのようなYen Won Dollar 実家の空に降らす For ma mama なるほど親に感謝ソングでもある。
 
 最後に会ったのがいつだったのかもう判然としないほど久しぶりに、ロカビリーミュージシャンのDuck Tetsuyaさんと再会した。震災のころ、一緒に避難所をまわった仲だ。この日はその慰問団体の主宰であるえれぞうさんPAを担当してもいた。Tetsuyaさんはすっかり白髪になっていたけど、それでもいつもニコニコとして元気な様子は変わらない。そして何より、どんどん観客を巻き込んでむちゃくちゃなライヴ空間にしていくパフォーマンスは健在。最後に演奏するJohnny B Goodでは、おもちゃの楽器を客たちに渡して、それぞれ演奏中に適当に鳴らさせる。またソロパートを用意していたりして、これが老若男女問わず毎度Tetsuyaさんのペースに懐柔されてしまって、すっかりノリノリででたらめをかましたりできるようになるのだ。とんでもない巻き込み力。つい加納さん、と、すごい名前が出てくる。そう、加納さんの仮面舞踏会と同様に、観客たちと作るライヴなのだ。
 うれしいことに、ひさびさに結城さんのパフォーマンス見たら自分も本気でやらないとダメだと思って気合入ったんだよ〜と屈託のない顔で言ってくれる。たぶん嘘はない。それもうれしかったけど、出番の直前の空気を見て刺激されるという、パフォーマーとして本当に正しい姿を見せてくれることに、自分もまた身が引き締まる思いがあった。またふたりとも、持ち時間の消化に寸分の狂いもなく(私は29分、Tetsuyaさんは30分きっかり)、これもふたりで称え合った。素晴らしい夜だった。

 20歳の頃、つまり16年前だが、この頃からずっと通っている古書店マゼランにも顔を出す。わりと久しぶりだが、店主の高熊さんは特にそういう「久しぶりの人」に向けるリアクションはしない。そういう人だ。仙台の街の近況から、近頃見聞きしたものの話を手短にする。三宅唱『ケイコ、目を澄ませて』の話が出た。何か印象深いところありましたか? とシンプルな質問。衒いのない質問ながら、何か繋がるような話にしなければというプレッシャーが働く。濱口竜介を引き合いに出したりしつつ、ふたりともショットの構築性よりも俳優への芝居のつけ方に見るべきものがあるのではないか、という話にした。だとしてもショットがなおざりにされているわけでもないのだが。これを引き継いで、要するにふたりのディレクションって台本を読むとかそういう準備段階から始まっているんですよねと。そうですね、かといって「仕掛ける」というものでもないし。そう、「仕掛け」たら、あれらは撮れないですよねと同意しあったところで、ほかのお客さんが入ってくる。ハン・ガン『すべての、白いものたちの』岸政彦『断片的なものの社会学田中純ミース・ファン・デル・ローエの戦場』買う。

 こうして旅日記めいたものを、過ぎた日々の後を追うようにして書き連ねても、旅の間じゅうに身体に生まれ、澱のように溜まっていくものとはまったく別の質になった、整然とした「記録」にしかならないことに、首をひねっている。
 帰ってきてから、友人の渡邉さんとカフェで話していて、自分は日記のようなものを書くのにまったく苦労がないと話した。
 たとえば、日記を書いているとしよう、もしくは書こうとしているとしよう。そして毎日が同じようなルーティンワークの繰り返しだったとしよう。そのルーティンワークが10日間あるとしよう。5日目で「あー、毎日同じことの繰り返しで書くことがない」と思ったとしよう。であれば、そのまま「毎日同じことの繰り返しで書くことがない」と書いてみるのだ。すると、「毎日」「同じこと」「繰り返し」という書くための成分が抽出される。この成分はそのまま活かしてもいいし、ひっくり返してみてもいい。「同じこと」なら「違うこと」に飛躍してもいいし、「繰り返し」なら「1回かぎり」と反対のことに連想を繋げてもいい。ルーティンワークが書くことを阻害しているのなら、自分はおそらく刹那的な1回限りのことに惹かれる性分なのだと自己分析が進むかもしれない、いや、と反論してもいい。なんだかんだ、この退屈な、日記なんかに書きおおせることのできない平坦な日々を飽きつつも好んでいるのだ、云々。何とでも言える。そして、何とでも言えるようにするのが日記というルーティンワークである。

 だが、仙台の旅は、そうした「何とでも言える性」に委ねても仕方のない充実があった。

 旅から戻って劇場にも行った。あまりにも素晴らしい友坂麗さんの踊りにぼろぼろと涙したり、久しぶりにステージを見た白雪さんの研究の痕に感嘆したりした。多少疲れてもいるし、急にやることが立て込んできたりと、劇場に行かなくてもよかったのだが、やはりこの2人を久しぶりに見たかったのと、自分の仕事の充実は劇場の経験と相補的になってしまっている。常に照らし合いがあるし、歳を重ねて20代より今の自分が優れているとしたら、確実に彼女たちの存在がある。

 夜。集まった150人くらいの観客の顔はよく見えない。その日の最終回のパフォーマンスはいつもそうだが、力が抜けていつもよりよくできているという感覚になる。ちょっと違うBGMを流したりもする。土砂降りのようなYen Won Dollar そう、卑猥な言葉も罵言もないし、ぎりぎり公共の空間に流しても差し支えがない。でもこんな音楽は普段かけない。でもまあ最後だし夜だしいいか、という、自分への許しが働いている段階で、いつもとちょっと違うのだ。「準備段階から始まっている」のだ。話すことも自ずから変わってくる、何を話したかは何も覚えていない。何をしたかも覚えていない。覚えているのは、思いがけないところで指笛が鳴ったこと。そこでスイッチがはっきりと入った。自分だけがそういう気分になったのかと思ったけど、終わったあと、横で見ていたパフォーマーの羽舞さんが、すごいなんか濃密な回だったと感想を漏らした。そんな雰囲気は出ていた、らしい。
 
 よく踊り子さんが、演じたあとに「どういう気分だったか」の感想を話してくれる。自分はパフォーマンスに気分の変動が関係することはほとんどないので、そういうものかと思って流していたが、ああこれはまさしく「気分」だと、じつに官能的な「気分」が起きていると感じた。あの人はこういうことの話をしていたのかと、パフォーマンス中にも考えていた。確かに、このような経験は別にはじめてではないが、この「気分」にフォーカスを合わせることは、ひとに教えられたことだ。
 別にどうってことないことだ。観客にそのような「気分」の変動がどれだけ意味あるものとして受け取れているかなんてわからない。いつもよりいい反応だったという感じは、別になかった。それでも、自分には意味がある。こういう意味づけを得られると、仕事をしている意味も、新たに感じられる。

 上野で降りて、仙台とはちがってまだまだ蒸し暑いらしい夜に出る。最寄り駅まで移動してから、仙台にはないケバブ屋で夕食を買う。トルコ語だろうか、そうした言葉でトルコ人、だろうか、そうした人と店員が会話するが、すぐに英語に切り替わる。話されるトルコ語、英語、日本語、その人のくりくりとした眼、濃い鬚、浅黒い肌、むっちりとした体つき。ケバブサンドは手早く提供された。全部が仙台にないものだ。なかったものだ。仙台にないものを集めて東京の自分になる。

宇佐美なつ『し-せい』記

7月27日 若干の語句修正

 

 7月11日。朝からずっと緊張している。どうして他人のことにこんなに緊張しているのかわからない。道玄坂サンマルクカフェを出ると、緊張はいよいよ胃の痛みを感じるまでに高まってきた。暑すぎるからだろうか? というか、自分のことでもこんなには緊張しない。冷房で冷えすぎたか? 自分の緊張だったらどうにかしようもあるのだが、他人のことはどうしようもない。とりあえずそろそろ開演だから坂を登って劇場に入る。中に入ってもずっと落ち着かなくて、あんまりそわそわしているから友人たちに怪訝な顔をされた。
 とにかくこの日は、緊張していた。
 

 7月11日。渋谷道頓堀劇場2回目の公演、5番目。トリのステージ。宇佐美なつ『し-せい』初演。この演目は、今回の周年週でしか演じられないことが、あらかじめアナウンスされていた。繰り返し再演されることが基本のストリップにおいて、めずらしい例だと思う。1日2回を10日間。つまり20ステージだけ演じられる演目になるということだ。3周年作である『さん-せい』と合わせての上演。そして、『さん-せい/し-せい』という写真集が販売された。

 

 M1から追っていく。
 アンビエントなシンセに乗せられた、ささやくような女声ボーカルが浮遊するように響いているイントロが暗闇に流れ出して、舞台が明転する。すると、盆から本舞台のほうへと一歩を約2拍にゆだねて進んでいる宇佐美の後ろ姿が現れる。頭部からは膝下にまで伸びるクリーム色のうすいヴェールが垂れていて、その奥には白いドレスを纏っているらしい。
 イントロが終わるや振り返り、ダンスパートが始まる。まず目を引くのはシャープなシルエットのドレスの優美さ。首周りから肩を通って体の中央を足元まで覆う瀟洒なフリル。レースは装飾のない箇所でほのかに素肌を見せてもいる。くわえて、ドレスの下には黒いセットアップの下着を身に着けていることも覗える。
 さらに先のヴェールは、端を左右の小指にリング状のパーツで装着されているようで、手や腕を振り上げるとヴェールは動きに連動して軌跡を描き、旋風のようにせわしなく動き回る……。これが今回の試みのひとつだなと納得する。

 

 M2。一転、選曲は男声のラップになり、優美なドレスは早々に脱ぎ捨てられる。下手端での背中を向けながらの脱衣。ここは、演目内での特筆すべきシーンだと思う。ドレスを袖に投げて処理し、次いでヴェールを頭から取り外すと、さっきまで視界に入ってもいたはずの黒い下着が、たった一枚の薄い布を払っただけにも関わらず、その素材の光沢の感触とともに際立って鮮烈に浮かび上がってくる。ここがすごい。 
 どうしてだろう。そもそも、ヴェールのクリーム色、この色合いの衣装はめずらしいのではないか。原色やネオンカラーといった、いかにも高輝度の照明に映えるだろう色使いでなく、淡く、微妙な色。写真や映画で被写体をやわらかく写すために「紗をかける」、という技法があるけれども、それ以上に、この下着の現れを突出したものにみせるコントラストを演出する効果があったように思う。
 この下着の現れについて、ちょっとこだわりたい。
 当たり前のことだけども、「衣装を変えた姿」を見せるためには脱衣と着衣の二段階の手数が必要になる。言うまでもなく。これは舞台上で行うこともあれば、袖に引っ込んで着替えることもある。あるいは、大判の衣装(和服など)の下にまったく違った衣装を身に着けているパターンなども、しばしば見られる。だが、このシーンにおいての下着姿は、あらかじめ目に入っていたはずの下着が、ことさら際立って独立した「衣装」として現象することに特異性がある。そう、下着姿は裸体への過程にあるのでもなく、意志を持って選択された、自律した姿としてそこに提示されているかのようなのだ。
 下着の上にはシースルーのワイシャツが羽織られる。なるほど透け感のあるドレス/下着とシースルーのシャツ/下着のズレを伴った反復が構成されてもいる。ここはまあ、穿った見方でもあるか。
 M1に比べて踊りの手数はかなり控えめで、盆上に進めば膝をついて髪をまさぐったり、横向きに膝を抱えて客席の方へ視線を送ったりするだけの時間が流れていく。気づけば男声ラップのヴァースから、女声の明瞭な発声のメロディックなフックに移行している。このボーカルがまた、泣かせるような声だ。断片的に、歌詞が耳に飛び込んでくる。振り返らない、後悔、夢は醒めた、というようなワード。歌詞から演目の内容を解釈するのは、具体的な踊りを捨象することになってしまう危うさもあるけど、動きに伴って歌が強く耳に飛び込んでくるのもまた事実で、その経験の確かさを追ってしまう。

 
 この選曲、自分が好きなドラマのものだ。そのドラマの印象すら引っ張り出してきてしまう。べつに演目には関係ない。たぶん。歌詞が耳に飛び込んでくるように、記憶も引きずり出される。こういうことってストリップには本当によくある。よくある、では済まないのは、自分がひどく緊張していたからだ。演目が進むにつれ、もちろん緊張はゆっくり解けていく。安心もしている。この演目がいいものになっているだろう予感も生まれている。ハナから冷静ではないのだ。すでに涙腺がゆるみつつある。

 

 冒頭とは違った声の男声ラップが曲をアウトロへと引き継ぎ、立ち上がった宇佐美は、名残を惜しむように顔を正面に残しつつも本舞台のほうへ戻っていき、振り返りきって去っていく背中を隠すように再びの暗転。曲も終りを迎える。このM2はかなり短い。 
 

 ところで『し-せい』というタイトル。このタイトルは初日に先んじて、Twitterで公表されていた。準新作(TSUTAYAでしか聞かない言葉だ。もうそれも消えていく)の『H4U』がそうだったように、類推できる言葉はいくつも思い浮かぶ。死生・至誠・私性・雌性……きりがないが、こうした言葉を並べるほど、いずれとも言えるし、いずれとも言えない宙吊りの状態を招く。もちろん、どの熟語が"本当に対応する言葉なのか"謎解きする気にはならないし、それには意味がないとも思う。与えられているのは『し-せい』というひらがなであり、また、ここに複数の熟語が対応し得るという状況のみ。だから、このタイトルは「多義的に解しうる」ということそのものを理解すれば充分ではないか、と。 
 ただし、多義性というのはつまり「裸」もそうなわけで、ここに多様な意味が充填されていることは軽く見られないのではないか、とも思った。

 

 暗転したままM3が始まる。弦楽器を爪弾くような音や、テープが逆回転するような音や、それとは指呼しがたいノイズが乗った音の重なり。ドラムの音が入ると、舞台が明転。背中を向けたまま、膝を抱えてうずくまるような姿が現れる。衣服はすでに何も纏っていない。しかし、体の下に透明な生地の、おそらくはベッド着であるだろう衣装が敷かれているのも見える。幽き、とでも形容するのがよさそうなほど、はかなげにささやくボーカルが入ると、膝は立てたまま残し、ばたりと上体を仰向けに倒し、両手を宙に伸ばしての踊りが始まる。
 前半とは打って変わって、この曲の歌詞を判明に聞き取ることはほとんど不可能だ。具体的な言葉を拾い上げることができないから、動きが何かの意味を伴っているのか判断することが難しくなっている。そしてまた、ベッド着に袖が通されると、そのベッド着の特異なことにも気付く。透明な生地にいくつか大きな穴が空いていたり、あらぬところにふくらみがあったり、どう着るのが正解なのかまったく掴めないような、いっそアンフォルメルなとでも言ったほうがよさそうな衣装であるらしい。多義性。これかと思った。また、穴の周囲にはピンク色のフリルが苔状にあしらわれており、深海生物か秘境の植物か、どうにもこの世ならぬ雰囲気を漂わせている。
 本舞台で、フロアの左右へ身体を投げ出すように踊るシークエンス。曲の盛り上がりに応じて立ち上がると、何かから開放されたように回転し、盆上へと躍り出る。溜めた力をいびつに放出していくように、上体は横ざまに倒しながら捻りをくわえ、両手がY字に、じりじりと──やはり植物の成長を微速度撮影で捉えたような──伸ばされていく。M1では、ヴェールを使った踊りとはいえいつも通りの「宇佐美なつ」の文体だった。M3はまったく違った、たとえば舞踏的な力の配分とでも言えるだろうか、いずれにしても2拍ずつ曲を刻んだりするような曲との強い同期ではなく、いつもとは別様に音楽/踊りの関係を捉えなおそうと試みている。ここを「踊り」として見せるのは、"間の持たなさ"に苦吟してきたこれまでの振付歴の過程を思うと、とくにチャレンジングなパートだったはずだ。 
 最後は力尽きたように盆に伏せ、曲は終わる。

 

 毎回泣いていると友人のひとりが週の後半にもらした。めずらしく長期の休みを得た彼は、この週もっとも『し-せい』を見た観客になった。演目に泣いているにせよ、この週の楽しさにも泣いているのではと茶々を入れたりする。なんで泣くのか分からんねや、どこで泣くんやとまた別の友人が言う。分からんねんなとぶつぶつ言ってる。自分で考えたまえよと放置。あんたもそんなごっついのに、涙なんか流さへんような顔して。こちらにまで疑問は及び、いつまでも食い下がる。放置する。 
 確かに泣いた。ストリップを見ていて涙することはしょっちゅうある。そのように語る人もいくらもいる。でも、劇場で実際に涙を拭っている人はあまり見かけない。親しい友人たちはよく泣いている。でもまあ、初日の初演が終わったあと、友人にハグされながらおんおんと泣いているようなのは確かに自分くらいかもしれない。これを従業員のひとりに見られていて、楽屋話にもちこまれたようだ。すごいピュアなお客さんがいるんですねとある踊り子は答えて、しかしどうやらそれが自分だと知ったら「じゃあピュアじゃない!」と評価を訂正していた。ピュアかピュアでないかはそれぞれの見識に委ねるが、自分のその様子を見てもらい泣きした、という声もあった。この人が一番ピュアだと思う。

 

 M4。ピアノの音が流れ出し、甘い男声ボーカルが聞こえてくる。目覚めたように手をついて体を起こし、膝をつき、上体を実にゆっくりと、しかし確かに起こしていく。曲がサビに向かっていく気配と共に、この動きをポーズへの予感として受け取れるなら、クライマックスへの期待を高める動きとして充分に効果をもたらしている。そしてシンガロングするボーカルとともに体を持ち上げ、左脚を約30°に保持する。なんというポーズだったか? そして左手ではベッド着を垂直に引き上げている。

 

 聞き覚えのあるイントロから、ボーカルの声を聞いて、ああこの曲かと思った。ある意味直球のバラードで、すごく「ストリップらしい」立ち上がりでもある。そんな正統な手触りでポーズが切られれば、当然涙が出る。この立ち上がりについて、友人と感想をいくつか交換した。そこで気づいたことがあった。

 

 今回の演目で注目したいのは、顔の扱い。これだ。最初のポーズでは、形を維持しながら、頭はやや左方向に逸らされるようにして、若干うなだれるとでもいえるような形で保持されている。盆は回転しているから、その表情が完全に見えないわけではないにせよ、少なくともそのポーズをどのように受け取るべきかを補助する有意な表情は読み取れない。このこと。
 立ち上がりでのこうした顔の──とりわけ読むべきは表情なので頭の向きのことだとしても「顔」と統一するが──扱いはほとんど一貫している。スワンであれベッド着の持ち上げを伴って視線をそこに集めているし、エルに至っても、足先でベッド着をつまみ、それが盆外に垂れる光景を演出していて、顔を見せることが都度びみょうに避けられてもいるようなのだ。
 思い出してみるなら、この演目は冒頭から背中を向けて始まり、M2でも振り返った後ろ姿で暗転し、M3も背中を見せたままうずくまる姿から始まるという、顔が希薄になるような仕方で演目が進められていることにも気づける。しかし、顔の希薄さとはいったい何を意味しているのだろう。

 

 ここ1年ほどは特にそうだったと思うが、宇佐美はその表情で演目のエモーショナルな側面を増幅するようにしていたはずだった。『アンビバレント』や『サマーチュール』にある、目を閉じ、かたや叫ぶように口を開いて切られるダイナミックなポーズ。『H4U』での顔を覆う指の間からのぞくような悲しげな目つき。あるいは『ワンダーテイスト』でひとりの客をロックオンしてしゃぶるようにして見つめるときの顔つき、今日の言葉で「表情管理」とでも言えそうな表情の表れが、確実に演目の効果を底上げしていたはずだ。『し-せい』と組み合わせて同週奇数回に演じられていた3周年作『さん-せい』のラストでも、曲の歌詞に合わせたリップシンクをしてみせるほど、その演目が要請しているだろう情動の喚起の補助線として、顔を使うことを重視していた。

 

 これらを前提にすると、今作における「顔」の希薄さはやはり特異なものと思わざるを得なかった。

 

 片膝を着いたブリッジ(やはりその表情が掴めないポーズ)を最後に、ポーズのシークエンスは閉じられる。ベッド着から袖を抜いて、まるで抜殻/亡骸かのようにして腕に抱えたまま、それを静かに床に横たえる。そうして文字通り一糸まとわぬ姿のまま、盆のつらにほど近い場所で、正面をしばし見つめて立ち尽くす。ここでようやく観客は、あらためて顔をはっきりと眼差すことになる。だが、その顔はごく慎重に、その顔へと殺到する意味を抑え込むようなものに見える。そう、意味するものが何もないのではなく、特定の意味を選ぶことがないようにすべてを飲み込もうとする顔。 
 もちろん、そうした解釈は主観的なものに過ぎないと言われれば、確かに明瞭に反証する根拠は持っていないと言わなければいけない。「そう見える」ということから一歩も出てはいないのかもしれない。ただし、そこに有意で特権的なひとつの意味を与えるに足る根拠も、ないように思える。『し-せい』というタイトルが一義に確定できないように、溢れ出てくる意味が背後に控えている。そうでなければ、どうしてこうなっているのか?
 ラスト。冒頭のように、そして何度も繰り返してきたように背中を向けて本舞台の方へと歩み去っていく。ここでの溶暗は、盆から足を花道へ踏み出してすぐに始まり、ほぼもう一歩を踏み出そうとするかどうかというタイミングで、余韻を断ち切るように早々に暗転しきってしまう。ピアノの響きだけが暗闇にかすかに残っている。

 

 これは想像だが、『し-せい』は、この立ち上がりのイメージから考えられた演目なのではないかと思う。最後のような、多様に意味を纏うはずの裸体がまったくプレーンな状態(を意味するようなかたち)で現れることを目指し、ドレスや下着や、あるいは不思議な形の衣装が組み合わされたのではないか。そして、組み合わせの結果に思いがけず何か物語のようなものがおぼろげに浮かび上がり、しかし同時に、そのおぼろさを崩さぬように保ちながら構成されたのではないか。なぜなら──そして1度だけ特定の言葉へもたれかかることが許されるなら──そのようにしてしか語り得ない「私性」があるはずだからだ。
 ただしこれは、作家の意図を推測しているようで、そうではない。"作家の意図を推測するという形で自分の印象を整理している"のだ。繰り返すけども、ここでは答え合わせをしたいわけではなかった。
 

 これはひとつの記録だった。

 

 最後の暗転にピアノの音も溶けいって、舞台には何もなくなった。静かだ。1秒、2秒……どのくらいだったか。明転して、ようやく拍手が鳴った。今週めでたく4周年を迎えました、宇佐美なつの写真のコーナーですと投光室のマイクアナウンスが入っても、拍手は重なって鳴っていた。その演目がすばらしかったから鳴った拍手なのか、周年を祝福する拍手なのか、はじめての演目を演じるという時間に立ち会ったことへの拍手なのか、わからないし、わかるわけがない。ただ、暗転の間の静かさと明転のあと、のっぺりとした照明のもと舞台に残ったベッド着を前にしながら誰もいない舞台に送る拍手は美しいと思った。で、自分はといえば泣いていたのだった。けっこう恥ずかしいくらい泣いていたけど、まあいいかーと思って、べろべろに泣いていた。いい周年週がはじまるなと思った。そのあとの写真ではなんだか話が噛み合わず、結局最後は少しイラッとした。でもいい日だった。

問いと愛着

最近、こんな記事を書いた。

note.com

要するに、ストリップにも"現場"があって、"推し"がいて、そしてここが重要だけども、性をめぐる問い直しがたくさん生まれる場だ、ということを書いた。こういうのは個人的な視点ではなく、少なくない人が関心を持ちうるトリガーだと信じているのだが、そして、そういう関心の網にかかって足を運ぶ人は(自分のように)何度か劇場に通うことにも繋がると思っているのだが、どうだろうか。

で、こっちはちょっと個人的な関心にもとづいて何か書こうかなと思ってエディタを開いているのだけど、さて個人的な関心とは……と、手が止まるところがある。個人的な関心?

ふっと思い出すのは、今年の3月に池袋のミカド劇場で見た、ささきさちさんの『デート』という演目。舞台から凸状に飛び出たでべそという場所で、ささきさんが膝を抱えるようにして床に座り、その膝に顔を寝かせながら、音楽が流れるに任せてただ佇む時間がある。踊る、とか、脱ぐ、とかいう動作は特になくて、ただ……そう「ただ」そうしている。それを見ていると、かなりの音量でかかっているメロウなラヴソングがどんどん耳に流れ込んできて、こちらの感情をぐぐっと深いところから持ち上げてくる。これは他の演目なのだが、やはりささきさんには「ただ」立ち尽くすようなシーンがあって、そしてそれは演目を何度も上演するうちに現れたシーンでもあった。どうしてあのシーンを足すようになったんですかと本人に訊いたら、音楽を聴く時間を増やしたくてとの答えが返ってきた。パフォーマンス中に、何もせず音楽を聴く時間がある。

『デート』のシーンでも「音楽を聴」いているのかどうかは確かめていないが、たぶん、同じようにささきさんはあの時間で音楽を聴いているのだと思う。そして、自分たち観客も、ささきさんが聴いている音楽を聴いている。客席で聴いているのだが、舞台と客席の隔たりが消えて、まるで身体が重なるように、共に聴いている。「身体が重なる」とはかなり性的なたとえだけども、まさしくそのようにセクシャルな官能を伴って、音楽を聴く時間があるのだ。肌がぞわぞわして、撫でられるように心地よく、うっとりするほど気持ちがいい。何かのパフォーマンスを見るということにはいろんな効果が発生するだろうけど、楽しくなるとか気持ちよくなるとかそういう感覚的な効果において、ここまでの強さを与えるパフォーマンスはなかなかない。

音楽を聴くことには聴覚を必要としているわけだけど、同時に、スピーカーから流れてくる音は物理的な振動でもあって、それが微弱であったとしても、じかに皮膚に届くものであることは間違いない。ふだんその振動をはっきり意識できるのは、たとえばライヴハウスとかクラブとかの環境下だと思う。そこでは自分も多少は踊ったり身体を揺らしながら感じている。だから、そうした振動の質をいちいち感覚して深く味わうというよりか、音の震えは動きのなかに紛れている。でも、ささきさんのパフォーマンスを静かに座りながら(このときは混んでいたので立っていたけど)眺めていると、音楽が触覚的な経験でもあるのだということを繊細に意識させられるし、またそうした触覚的な感覚が、「身体を重」ねるイメージを呼び出している。

身体を見るというのは、身体を感じるということである。そして身体を見て身体を感じることに、音楽を聴くという要素が関係している。これがどういうことなのか……そう、"どういうことなのか"という問いかけがいちいち発生する。まず、自分自身に強い感覚の経験があって、それってなんでこんなことになるんだろうかという問いかけが生まれて、"なんで"を埋める答えを探そうとする。味わいを深く追ううちに、答えと問いが絡まりあってくる。

もちろんこうした問いかけのみに触発されるわけではない。

宇佐美なつさんの『positive』という、デビューして間もない頃から演じられている演目がある。この2年で何度も見た大好きな演目のひとつだが、2022年の10月を最後に半年ほど演じられずにいた。それが先ごろ、大和ミュージックでパフォーマンスされた。おどろいたのは、何百回と踊られてきたはずのこの演目に手が入れられて、かなり印象を変えていたことだ。そんな変化に気づけるのは呆れるほどこの演目を見ているからなのだが、変わったことには違いなく、変わった以上、印象が変わることもまた間違いない。

演目=作品はその都度にリアルタイムで演じられることで成立するのだし、また演者も時間を経るうちに様々に感覚や意識は変わるし、どんな変化が起きても不思議ではない。だから変化それ自体がどうというより、変化がとりわけ意味のあるものとして感じられる、自分とその演目の、もしくは宇佐美さんのステージを見ることの時間の流れそれ自体に強く触発される。2年かけて固まりつつあった『positive』と、『positive』を見たさまざまな記憶のイメージが、また動き出す。というより、ずっと動いていたのだが、都度に把握できるようなスケールではなかったのだ、ということが分かる。なんというのか、それってすごくリアルなのだ。

これはもう、ストリップがどうこうという問題を越えているが、個人的な関心といえばこれ以上の関心はないかもしれない。自分にとって、そういう変化の意味を感じることが、自分自身に強く働きかけていると感じる。

最初にリンクを貼ったnoteの記事で書いたことに自ら倣えば、宇佐美さんは自分にとっての"推し"と言っていい人かもしれない。かもしれない、というのは、その言葉を使うことに違和感があるからなのだが、内実はそういうことでいいだろうと思う。そして、そのような関わりを持ち続けること──それは意志を持って関わり続けるという判断の結果でもあるが、なかば以上に意志を超えて巻き込まれ続けることでもある過程のなかで、何度も見て愛着を持つ演目がダイナミックな変化を伴うことは、おおげさに言って"出会い直し"のような感覚がある。これは前も書いたことがあって、そしていまだにどこにあるか見つけられないのではっきりと引用できないのだが、ロラン・バルトが愛とは対象をイメージの重責から解放すること、というようなことを書いていた、はずだ。バルトのこの言葉は(自分の記憶通りそう言っていたとして)、対象への誠実さとは絶えざる"出会い直し"をすることなのだ、とは言い換えられないだろうか。それが対象であれ自分自身であれ、都度に変わっていくこととを感じ、見定め、またそこに関わり直そうと態度をあらためる。これ以上に個人的なことは、ないかもしれない。

よく、愛着のあるものについて書くのはむずかしいと言われる。もちろん、好きだとか感情が高ぶるとかそういうことを書きなぐるようにすることはできるけど、距離をとって、自分以外の人に意味があるようなことを書くのがむずかしいということだ。実際、後半の話はほとんどの人にとって意味を結べない無駄口だろう。かといって、ごく個人的なことが絶対に他人を触発させないとも、言えないと思う。ごく個人的なことが他人に流れ着いていくような、そういう風通しのよさを確保するような、そうしたあり方があるのではないか。ただそれは、「あってほしい」という願いと同義なのだが。

思いつきなしの思いつき (香水の話)

書きたい話、何かないかな〜……思いつくことは別にない。

そうね、最近、香水が気になっている。もともと「香り」というものに漠然とした興味はあった。きっかけになったのは、友人についていってシーシャを吸うようになったのが大きい、と思う。シーシャは「おいしい」と言ったりするので味覚にまつわる経験ではある。まずいシーシャというのはある。うまいシーシャもある。つまり「味」がある。くさいとかかぐわしいとかいうことは、まああるにせよ滅多には言わない。うまい、まずいで測られる。そうはいっても、咀嚼するでも嚥下するでもなく文字通り煙を口に含むだけだ。

だから、ここから「香り」というルートを見つけたのはわりと勝手な思いつきではあるのだが、それは別にいい。

朝吹真理子の、なんといったか、図書館で借りた瀟洒な装丁のエッセイ集を、いつだった? 多分、コロナに入って最初の年か翌年あたりに読んだ。そこで、六本木でアルゼンチンの香水メーカーのお店に行ったという話があって、そこではフレグランスメーカーの具体的な名前は出てこないのだけど、これはフエギアだ。それを調べた。

調べて、六本木はちょっと遠いから銀座にもあるらしい店に行ってみた。ググってみてほしいのだが(ChatGPTのおかげで死語になるかもらしい、まださわったことがない)、じつに美しくデザインされた店内で、それだけで期待は高まる。店員さんのユニフォームもモード系でかなりイケてる。クジャク、というブランドらしいことを最近知った。衣装に着てみたいなと思ったけどさすがのお値段なので、ご縁があれば。で、そう、フエギアでは香水瓶にフラスコがかぶせてあって、これにその香水が吹きつけてある。手にとって返すと、その香りがするのだ。

ここからは語彙がない。というか、そうした語彙の届かなさがいちばん惹きつける。
漠然とした「いい香り」のイメージってあるだろうけど、そうした「いい香り」のイメージは、じつのところ、かなりぼんやりしている。そう、イメージ。

「いい香り」、まあ石鹸の香り、としておこう。石鹸のいい香りがする。あるいは、何でもいい、何か好きな花の匂いでいい、そうした花のような香りがする、としよう。つまり、香りと香りを発する物質のイメージが問題なく結びつくということだ。
しかし、フエギアの香水は、そうした対になるイメージを与えることができない。感覚的な快はある。むしろ深くある。ただ、それがどう「いい香り」なのか、まったく言い表せない。店員さんのサジェストにより、いろいろと手がかりを得るが、それでもよく分からない。

聞いていると、それぞれの香水には物語がある、と教えてくれる。個別の物語には関心が薄いので忘れてしまうが、とにかく、ある。物語によって、複雑な香りの組成が霧散せずに仮止めされている。なるほど、と納得が訪れる。相変わらず自分はそれらの香りについて何かを言うことはできないが、ひとまず調香師の与えた足場を得られる。香水には物語があるのだ。

この物語は、イランイラン、サンダルウッド、ペチパー、ユーカリジャスミン、アルデハイド、イチジク、タバコ……なんでもいいが、そうした香料の合成によって還元的に、一義的に読まれる答えではないが、香料の合成がそれ自体ではなくイメージとして手に入れられることを望んでいるのだ、ということが分かる。「いい香り」という経験と「物語」という把握は、決定的ではないにせよ、ひとつの枠組みとして機能している。

香水には男性用・女性用というよくわからない使用対象の振り分けがあるが、これとてイメージの問題である。そんなものはないわけだが、イメージとしての存在までは否定しがたい。いま私がつけているDiptyqueのTEMPOという香水は、いちおう「男性」向けということらしいが、それを知らずにつけたとき、むしろ「女性」向けの香水なのかなと感じた。そうした想定のズレはどうでもよさそうだが、「男性」のイメージのゆらぎを与える。パブリックには「男性」というイメージが共有できて、私がひとりだけカンが鈍いということもありうるが、ともあれ私の「男性」イメージはこの香りによっていくらかゆらぐ。イメージが合成される。ジェンダーイメージは掴みどころのないものとして、香りのようなものとして、揮発的な、新たなイメージを纏いはじめる。

フエギアの話だった。
道後での公演を終えて、わりと息が抜けたので、ちょっと大きめの買い物をするかと、フエギアにもう一度行って、Paisajeという香水を買った。店員さんに細かく話を聞きながら試香していくうち、すっと入ってきたのがこの香りだった。「風景」という意味を持つ名のこの香水は、ジンジャー・ユーカリ・カルダモンを主に構成されているらしい。ぴりっとした香りが鼻の奥について、身体の輪郭がシャープになるような感じがする。さっきも使ったけど、香水は「纏う」と言うのだ。とはいえ、香水は点状に、手首や足首といった血流の多い箇所に吹き付けるから、香水がじっさいに全身を覆うわけではない。覆っているのは、やはりイメージなのだと思う。イメージを纏うのだ。曰く言いがたさを、自分に乗せる。そのぶんだけ、自分が複雑化して、同時に、有限化される。paisajeという外縁を手に入れる。

ただ、それは時間的構成を持っている。じょじょに香り立ちは推移して、時間ごとに特徴的に感じられる香りの成分は変化する。そして、やがて揮発しきって脱ぐことなしにそれが脱ぎ去られる。

それはすごく面白いのだ。一足飛びに、単なる感想に飛びついてしまうのは、経験を解いてパターンを把握できないからだ。面白い、でも何が?

この何が?が作動すると、関心が持続する。何が? どうして? 問いかけは、まだ問いかけとしてもぐずぐずで、粥状だ。

ともあれ、思いつきなしに書き出すと、こういう思いつきが出てくる。それでよい。

萩尾のばら『プロローグ』

まずは自分の不明を恥じるところから話し始めなければなりません。

2021年の9頭、萩尾のばらさんを観たのはこの週がはじめてでした。その時ののばらさんの印象はといえば、ごくふつうの「新人さん」というものに過ぎません。この週で一緒になっているお姐さんを慕っているらしく、SNSを介してもその懐っこい様子は伝わってきて、しかしながらそれが余計に「新人さん」、すなわち業界にまだ馴染みきっていない、有体に言ってしまえば「プロ」ではないように見えていました。

翌週9中もそのお姐さんと一緒で、ここでものばらさんを観ています。前週とそれほど認識は変わらなかったものの、一回とてもいいと思えるステージがあり、その感想を伝えにはじめて写真を撮ったのでした。けれども、はじめての会話というのはお互いの背景が分からないものですから、そのステージがよかったという理由で写真を撮りに来ているというアクションの意味を、互いにすり合わせることは難しいのだと思います。これも有体に言ってしまえば、あまり意図が伝わらなかったかな、と感じてそのままに終わりました。

あえて話さなくてもよいような、いささかネガティブな話題から語り起こしたのは、そうした最初の印象が、ごく短期間でひっくり返されるという経験を、おそらくのばらさんではじめて経験したからに他なりません。

2022年1結。痛快な周年作の『JOY』でのばらさんへの視線は一気に変わりました。さらに半年後、7中で再見した『JOY』は振付もより魅力的になっただけでなく、パフォーマンスそのものも、かつてとまったく違う水準で演じられていることに驚きさえしました。

そして12結。『JOY』こそ見られなかったものの、7中で出していた『箱庭』そして2作目という初見の『誓い』ともに、心身ともに充実したとでも形容できそうな、本当に魅力的なステージに涙しました。はじめてのばらさんを見てからわずか1年と3ヶ月。不明を恥じる、というのは、このような資質をもった人に対して、まったくまともに目を向けられていなかったということです。もちろん、のばらさん自身が変わった側面も多分にあるとは思いますが、そうした変化の兆しについて他人が(もしかすると本人も含めて)先取りして分かるようなことはほとんどなく、ただ丹念に見ていくことでようやく何かが分かりかけるものだと改めて感じさせられたのがのばらさんだ、という話でもあります。

 

 

 

ここからは、最新作の演目や、関連するその他の踊り子さんの演目について具体的に踏み込んだ話をしていきます。お嫌な方はご注意いただければ。

 

 

 

 

 

 

2023年1結。2周年週の新作は『プロローグ』と題されていることがのばらさんのツイートで発表されました。おそらくは自己言及的な演目になるだろうと──「周年作」がしばしばそうした性格を持つことからも想像できる──、そしてそこにはのばらさんが踊り子というものを、また踊り子としての「私」をどう捉えているのかが示される機会になると思っていました。

では、実際はどうだったか。


冒頭、上手に座り込んだツナギ姿ののばらさんがスケッチ用紙のような紙束を持ちつつ、ペンで何かを描いているところから演目はスタートします。やがて不満そうな顔になったのばらさんが紙片を放り投げ、それが宙に舞ったかと思えば、のばらさん自身も踊りだします。こうしたオープニングは、2022年11結に演された黒井ひとみさんの10周年作『10年目』を想起させます。黒井さんものばらさんが慕う踊り子さんの1人であり、また黒井さんの周年週で共演した機会におそらくはこの演目を見ているだろうことも想像できると、両演目の繋がりの連想はそれほど恣意的とも思えません。ですが、それはもちろんこの演目を模倣したという話ではありません。

 

続く衣装替え、のばらさんはパンツスーツ姿で、いささか疲弊しているような面持ちでステージに現れます。おそらくは、絵を描くという「夢」を諦めて「現実」を受け入れてなにか社会人におさまったと見て取っていいでしょう。こうした姿からは、ふと中条彩乃さんの3周年作『ターニングポイント』を思い出しました。のばらさんがこの演目を見たかどうかはわかりませんが、同様な個人史への自己言及的な演目において、「社会人」であるところから現在の「踊り子」へと転身を遂げるというストーリーを辿るだろうことが想像できます。


およそ個人史的な自己言及を含む演目は、現在の自分をどのように肯定するかについてのドラマを作らざるを得ません。むろん、悩みを抱えたままそれでもなお、ということはあるにせよ、それであれ苦味を交えた肯定のはずです。直接的に踊り子像を提示するわけではありませんが、引退された美月春さんの5周年作『漫画家』も、あるいは葵マコさんの14周年作『うたうたい』も、こうした煩悶とその先にある創作することの肯定を描いた演目だったと記憶しています。

キャリアや立場によってニュアンスは変われど、表現の行き着く先が自己肯定になることは間違いないのです。問題は、どうやってそれを表現するのか、です。

 

『プロローグ』においても、自ずから「萩尾のばらはどのようにして自己肯定(を表現)するのか」に演目のドラマの力点はかかっています。

 

改めて確認すると、『プロローグ』はツナギ→パンツスーツという、周年作らしからぬじつに簡素な出で立ちで演じられています。美月さんの『漫画家』はリアリズム志向で、演目中はスウェット姿でこれといった衣装替えはなかったはずと記憶していますが、のばらさんの『プロローグ』は、自らの置かれた状況の移行を示すための衣装替えを一度は含んでいます。すなわち、ここには「踊り子」というものを華やいだ衣装を着ることで表す──それ自体が自己肯定としての内面の表象であるような──という道筋があり得るわけです。実際、『ターニングポイント』はそうした華やいだ衣装で「中条彩乃」が現れることの多幸感があり、『10年目』でもまた、衣装の華やぎ(「あえて」の批評性はあるにせよ)は「踊り子」を表象する肯定的なイメージとして通過した先に、「黒井ひとみ」であることの矜持を見せています。

しかしながらのばらさんは『プロローグ』は、パンツスーツを脱いだあとに残る白いワイシャツを羽織っただけの格好で立ち上がりを迎えます。踊り子らしい衣装という記号を通過することなく一挙に、この身体こそが踊り子である私を表現し肯定するものだとして示されるのです。一見してそれは、「夢」を追いかけられず受け入れた「社会」から再び「夢」の世界に戻ったと取れなくもありません。しかし、それだけではないように思います。

 

各々が持っている「身体」というものは、私(という意識)・肉体・衣服がそれぞれがもつれあってひとつのように重なっています。物理的な要素だけではなく、体へのイメージ、そしてまた私たちが着ている衣服も、イメージを介した広義の「身体」のひとつだと言えるでしょう。

ただ「身体」の内実は決してまとまっているわけではなくバラバラです。私という自意識が過不足なく働くこと、満足がいくまで肉体を整えること、気に入った服を着ること。これらのバランスをとりながら人は生きています。逆に言えば、それらはずっと満足な状態であることは叶わず、ときおり不満であったり、不調であったり、程度が過ぎれば病を迎えることすらある、さまざまな要素が干渉しあって生じる波の揺らぎのようなものです。

ひとつとして同じものがない、各々が持つ「身体」。しかしながらその「身体」を充分に見つめ肯定することは、誰にとっても容易ではありません。そもそも、「身体」がことさらに肯定/否定される認識の外にあるようなことだってままあるでしょう。けれども、ストリップというものは(見ることはもちろん、演じることにおいても)否が応でもその「身体」というものを意識せざるを得ない表現です。
のばらさんの『プロローグ』も「夢」と「現実」の対立から「夢」の実現を勝ち取るストーリーというだけでなく、なんてことはない白いワイシャツ越しに見せる「身体」、波のような揺らぎを引き受けるこの「身体」を現すことにこそ強く焦点を当てています。踊り子とは無葛藤な薔薇色の「夢」の世界ではなく、各々が持つ「身体」の揺らぎを、この私の「身体」を介して観客と見つめ直すことへ開く職業なのだと、そののばらさん自身の「身体」が、語らずして示しているように見えます。ベッドでは、不満げであったり、疲れ切っていたりするわかりやすい顔つきはすでになく、ただ「身体」の現れに従って探るように、あるいは心ゆくままに踊っている、いわば生きることそのものの成り行きにまかせてその都度に移ろう曰く言いがたい顔つきだけがあります。

ここでいくらか抽象的に展開している話は、もちろん明示的に演目の中で示されるわけではありませんし、示しようもありません。ただ、簡素な衣装から現れる身体の力──強度、説得力、何といっても結局は掴みどころのない──からは、あらかじめ手軽な言葉に置き換えられるような結論を持っているわけではないという、いわば表現という賭けに足を踏み出している感触が、確かに伝わってきます。

ストリップは、各々が持つ「身体」を表現の素材としながらも、それがすぐに表現として成立するようなものではないと観客ながらに強く感じます。物理的な肉体のコンディショニングは言うに及びませんが──いささか神秘化してしまうことが許されるなら──そこには踊り子による「身体」への"信"がなければ、表現としてまったく成立しないものだとも思います。
また同時に、ストリップという表現が築き上げてきた"信"の歴史に、自分もまた連なっていくこと。先行する演目の記憶との近似のみならず、さらには無数の踊り子たちが磨いてきた「ポーズ」の世界へと自分を繰り込ませること。もし『プロローグ』でのばらさんが切る、喩えようもなくすばらしいエルに打たれるならば、ここまでの繰り言は理解しようとするまでもなく、自ずから各々の「身体」によって、深く感じられることでしょう。

 

蛇足ながら、演目に即して字義通りに読むなら『プロローグ』は踊り子に至る前史を意味していると理解できます。他方で、萩尾のばらという踊り子は「これから」であると力強く宣言する演目だとも言えるでしょう。そして、そのようにあればいいと、のばらさんの末永く実りある舞台生活を願いつつ、受け取っています。